年が明けるとB二九が横須賀にも頻繁に偵察に飛来するようになった。部隊は急き立てられるように移動を開始した。先発受入準備部隊に続いて飛行隊ごとに整備班を伴って戦闘機や輸送機に分乗して移動を開始した。しかし国内の移動と言っても何時敵機と遭遇するか分からない状態なので戦闘機は全機実弾を装備しての移動だったことが、今の日本の差し迫った現実を肌で実感させた。

 ただ一つ、この殺気立った世の中に心が休まったことは移動直前、例の憲兵隊の石岡兵曹長が私と高瀬に面会を求めてきたことだった。突然のことで私達は面喰ってしまったが、石岡兵曹長は「沖縄の部隊に転勤になったので暇乞いに来た。」とその来訪の目的を告げた。

「あの時、芸者に『私達を守ってください。』と言われたその一言が忘れられなくて、あの後転勤を申し出て、沖縄の部隊へ廻してもらいました。内地にいれば、まあこの先どうなるかは分かりませんが、そこそこ安全なんでしょうが、それじゃ自分の気が済まなくてねえ。今の自分に何が出来るか分かりませんが、これでも軍人の端くれなんだから、せめて軍人らしく働いて死のうと思いまして。

 それに、かあちゃんや子供のことも考えましてね。生きていてそばにいてやるのが本当は一番良いんでしょうが、今のご時世ではせめて鬼のように言われている憲兵ではなく、お国を守る兵隊さんになってご奉公するくらいしか私には出来ません。お二人のように学があるわけじゃないので、私には天下国家のことなどよう分かりません。立派にお国のために働いたと子供が言えるように。私にはそれが精一杯です。

 こんなこと、それこそ大声で言えることじゃありませんが、天子様のためじゃなく家族のために戦ってきます。それではこれで。あの芸者にも一言詫びておきたかったのですが、店を辞めてしまったそうで、会えませんでした。」

 石岡兵曹長は立ち上がると敬礼ではなく律儀にお辞儀をして立ち去ろうとした。その姿は軍人と言うよりも気のいい横丁のおじさんそのままだった。

「待ってください。」

 私は石岡兵曹長の背中に向かって声をかけた。

「私達の方こそ迷惑をかけました。」

 私の声に振り返った石岡兵曹長に立ち上がって頭を下げた。

「何も出来ることはありませんが、せめて武運長久をお祈りします。我々も沖縄に敵が来れば戦闘に参加することになると思います。精一杯やりましょう。ただ命だけは大切に。」

 高瀬も立ち上がって私と同じように頭を下げた。石岡兵曹長は私達に向き直ると、もう一度深々と頭を下げてから部屋を出て行った。

「あの人も戦争さえなければ平和な家庭を精一杯支えて生きていったろうに。」

 高瀬が独り言のように呟いた。

 松山に移動してから訓練はさらに高度な段階へと移行した。編隊による離陸、空戦機動から編隊同士の優位戦、同位戦、劣位戦等高等な機動戦闘が毎日繰り返された。特に私や高瀬が所属していた飛行隊は一番先に編成されたことから全体に錬度が高かったため、必然訓練内容も他の飛行隊より一段と高度なものとなっていた。

 反面、訓練が高度に、そして複雑になるにつれて事故も多く発生した。技量未熟が原因の事故もあったが、機械の工作不良や材質の不良による事故も少なくはなかった。特に主脚の材質不良による折損事故やブレーキの片利きによる転覆事故が多かった。また発動機の潤滑油漏れや焼き付きも相変わらず多発していた。そんな事故で人命が失われた時は部隊全体が重い空気に包まれたが、何時までも感傷に浸っている余裕はなかった。

 高瀬は相変わらず訓練の合間に整備班と協力して故障の多い発動機やブレーキの調整に精を出していた。そして良い案を思いつくと自分の機体に試しては飛行を繰り返していた。時には危険を伴う試験もあったが、高瀬は意に介さずに改造を加えた機体に乗り込んだ。

 そんなある日、高瀬が私に『頼みがある。』と言ってきた。高瀬は私に「改造を加えた機体にしばらく乗って欲しい。」と言った。

「危険な改造ではない。発動機の出力を少し制限した機体に乗って欲しいんだ。その代わり潤滑油や点火栓は一番良いやつを使ってもらう。要は少しばかり馬力を制限した誉がうまく回るか、それを試してもらいたいんだ。以前にも話したが、二千馬力を出そうとして千二、三百しか出なくなるのなら、千七百でも千八百でも安定して回ってくれた方がいいと、そういうことだよ。発動機本体や機体に細工をするわけじゃないから特に危険はない。」

 私は多少の危険があっても引き受けるつもりだったから、一も二もなく高瀬の頼みを聞き入れて翌日から訓練には高瀬に指定された機体を使った。この実験は結果的に油漏れなどの故障は減ったものの構造的な問題を抱えた誉発動機だけに目覚しい効果を上げるには至らなかったが、こうした地道な実験の繰り返しで、これまで整備員の勘に頼る部分が多かったこの分野にシステム管理の概念を導入したのは何よりも画期的な成果だった。

 たとえば発動機など大きな部品については予め整備済みのものを用意しておいて具合の悪いものはその場で機体から下ろして取り替え、飛行機の稼働率を上げようとする試みや個々の機体ごとに管理簿を備え付けて整備内容や予備部品、補給品などの交換を総括的に管理していった。

 これらのやり方は高瀬一人が考え出したものではなかったが、操縦は操縦、偵察は偵察、整備補給は整備補給といった具合にそれぞればらばらに動いていた各部隊を一つの戦闘システムとして統合しようという高瀬の考え方はこれまでの日本海軍には見られないものだった。

 こうして部隊は着々と戦力を蓄えていたが、フィリピンでの戦闘が終わってから比較的穏やかに推移していた戦局は三ヶ月周期という高瀬の言葉どおり敵の硫黄島上陸でまた慌しくなった。硫黄島を敵に取られると敵の爆撃機に護衛の戦闘機が付いてくることになって邀撃が一段と困難になることが予想されたが、敵の機動部隊に十重二十重に囲まれた島を救援することは有力な海上、航空戦力を消耗し尽くした日本には不可能だった。散発的な特攻攻撃が行われ、敵に幾らかの打撃を与えはしたが、全体から見れば敵にとってはかすり傷にも等しいものだった。

 結局、制海、制空権を奪われて孤立した島嶼戦は守備隊がいかに奮戦しようとも戦力、補給の充分な有力な敵に対してはある分を使い切ればそれで終いの味方は戦力をすり潰して全滅する以外に道はなかった。一部には今の海軍の中で有力な戦力を擁する当部隊も安閑と訓練に励んでいる場合ではなく、この戦闘に参加すべきだという強硬意見も出されたが、練成途上の部隊がその一部を派遣したところで結局戦局に寄与するような有力な戦力とはなり得ず、せっかく練成した部隊をいたずらに消耗させるだけだという意見が大勢を占めたために強硬派を抑え込んだ。しかし強硬派にしろ、自重派にしろ、全く希望のない激戦を戦っている友軍を見殺しにせざるを得ないどうにもやり切れない思いは同じだった。