翌朝僕は支度を整えてホテルのロビーで迎えに来ることになっている佐山芳恵の弟を待った。その弟と言う男の顔は知らなかったが、法事に出るのだからそれなりの格好で来るだろうと本人の特定にはさして心配もしていなかった。

 しかし考えてみればおかしなものだった。全く知りもしない家の法事に親族として出席するなんて異常事態だったが、見ず知らずの女の体で生きていること自体が異常などということを通り越している超現象なのだから今更何を言っても始まるまい。法事に出て僕の様子がおかしかろうが、現代の科学では僕やどこに行ってしまったのか分からない佐山芳恵に起こったことを元に戻すことどころか一体何が起こったのか証明することすら出来ないし、仮に家族との間に問題が起こったとしてもまことに無責任なことながら東京で一人暮らしをしている僕には何の影響もないので腹を決めて振舞うことにした。

 しばらく待っていると三十歳前後のダークスーツを着た男性がロビーに入って来た。顔つきもどことなく佐山芳恵に似ているのでこれに間違いあるまいと決めて相手の出方を見ているとやはりそばによって来て声をかけてきた。

「すました顔して何してるんだよ。お袋、相当に怒っているぞ。」

「どうして怒るのよ。私にもいろいろ都合があるのよ。」

 僕はあまり話を引きずらないように気を使いながら答えた。

「法事の前に家にも戻らないでホテルに泊まって。しかも普通の旅行でもするように他人まで連れて来て。一体誰の法事だと思っているんだってそう言っていたよ。それも確かに一理あるよな。」

 誰の法事だってそれは僕にとっては何の関わりもない赤の他人の法事だよと言ってやりたかったが、今ここで騒ぎを起こすのは極めて不穏当かつ不利なのでこれ以上は面倒には踏み込まないことにした。

「いろいろ考え方があるんでしょう。急ぐんでしょう。行きましょう。」

 僕は立ち上がって出口に向かって歩き出そうとしたら弟君が待ったをかけた。

「お袋が姉さんの友達を連れて来いと言うんだよ。法事に呼んでも仕方ないだろうと言ったんだけど。どうしてもって。姉さんが連れて来たのは友達じゃないと思っているみたいだ。」

『僕の連れは間違いなく女で男はお前の娘の方だよ。』

 佐山芳恵の母親に会ったらそう言ってやりたいような気がしたが、これも極めて穏やかならざる言動なので厳に慎むことにした。

「そういうことなの。でも出戻り中年女に男がついたら良いことじゃない。ちょっと待ってね、聞いてみるから。」

 僕はロビーの電話を取って部屋に電話して女土方に事情を話すと女土方は二つ返事で同行することを同意した。

「でもちょっと待ってね。これから支度するから。」

 女土方は手短にそれだけ言うと電話を切った。

「今支度をして降りて来るって。何か飲んで待ってよう。」

 僕は弟君を置いてティールームに入った。僕はアイスコーヒーを頼むと後を追って入って来た弟君に向かって法事の時間を聞いた。

「十一時からだけど早めに行かないと。まだ時間は十分にあるけど。」

 まだ八時を少し回ったところだから時間には余裕があると思った。第一僕は会場がどこにあるのかも知らないのだから。

「近所だからいいけど打ち合わせや準備もあるから早めに行っていないとな。姉さんも姉さんだけど母さんも何を考えているんだか。」

 弟君はコーヒーを頼むと僕の向かいに座って一言文句を言った。法事と言っても事前の準備もあるだろうし、何もしなかったのだから文句を言われても仕方ないと思い「忙しい思いをさせてごめんね。」と謝っておいた。弟君はあまりそのことに拘るでもなく運ばれたコーヒーを飲み始めた。

「私がやることは特に何かあるの。」

 僕は一応聞いてみた。ここまで話が進んでいれば後は寺へのお布施とか法事の後の宴席の支払いとかそんなものだろう。

「忌中払いで挨拶をして欲しいと母さんが言っていたよ。」

 忌中払いの挨拶など普通は配偶者か長男がすることなのだけどやれというのなら別にかまわなかった。

「私がやっても良いのかしらね。」

 一応一言断っておいたが、弟君は「別にかまわないだろう、そんなこと誰がやっても。」と何もしなかったお前がやれとでも言わんばかりにそっけなく答えた。

「そう、分かった。それでいいんなら私がやるわ。」

 僕は簡単に応じてコーヒーを飲んだ。冷たい苦味が舌と喉に心地良かった。

「へえ、姉さん、何も言わないのか。ずい分物分りがよくなったじゃないか。今までは何か言えばああだこうだと文句を言っていた人が。」

 弟君はどうしたのとでも言うように僕の顔を覗った。

『お前の姉さんが変わったんじゃなくて基本的な人格そのものが変わったんだよ。』

 変わったと言われる度にいつも心に思い浮かべていた言葉がまた浮かんだが、それを言うわけにもいかないので「そう。」とだけ答えて後は黙っていた。とにかくこういう場合積極的に言葉を発するのは得策ではないと言うのが僕の対応原則だったので今回も余計なことを言わずに黙っていたところに女土方が入って来た。女土方は法事に顔を出すことを予想していたようにきちんと黒のフォーマルを身に纏っていたのには少し驚かされた。

「遅くなってごめんなさい。忙しい日でしょう、行きましょう。」

 女土方は何時もの様に行動がてきぱきと早かった。立ったまま弟君に簡単に挨拶をして身を翻すようにしてティールームを出た。僕たちは慌てて席を立つと女土方の後を追った。佐山家はホテルから車で十五分ほど走った朝里川沿いの住宅街にあった。途中女土方が小樽のことをいろいろ聞いたが、僕はネットで学習した知識をごく簡単に口にしただけで細かいことは説明しなかった。

 しなかったと言うよりもできなかったというところが正直なところだった。弟君がその都度補足説明していたが「姉さん、自分が生まれ育ったところでよく知ってるんだから少しは説明してやれよ。」と苦情を言われた。

『出来るものならとっくにしているよ。』

 僕は心の中で文句を言ってから「見ての通り最果ての田舎よ。」と一言だけ観光ガイドをしてやった。女土方は「こういう人なのよ。」と弟君に向かって言って笑った。それでも佐山家の周りの様子は明細図などで知識を得ていたのでよく知っていた。家構えはびっくりするような豪邸ではなかったが、それなりに広い敷地に建てられた立派な家だった。庭先に車が停まると家の中から若い女性が出て来た。二十代後半の女性だったが、僕や女土方と違って小柄でかわいらしい感じの女性だった。どうやら弟君の婚約者のようだった。

 僕たちが車から降りると近寄って来てかわいらしい笑顔で「お姉さん、お久しぶりです。」と挨拶した。お久しぶりと言うことは前に会っていると言うことになる。こうして相手の様子から関係を判断していかないと会話を継げないのが悲しい。しかしそんなことで悲しがってもいられないので「久しぶりね、元気だった。」なんて鸚鵡返しのように答えてうまくごまかしたつもりだった。

 もうここまで来ればほとんど勢いなので僕は女土方を促してさっさと家の中に入って行った。そしてそこでとうとう佐山芳恵の母親と対面した。佐山母は想像していたよりも穏やかで知的な顔つきをした女性だった。

 佐山母はまず女土方に丁寧に挨拶をした後で今度は僕に向かってひとくされ文句を言った。要は今回あれほどまとまった休暇を取って法事の準備をするように言ってあったのにそれを守らなかったこと、それに加えてせっかくいろいろ骨を折ってまとめようとしている例の見合いに全く何の関心も示さないことなどがその主なものだった。

『そりゃあんた、あんたの娘はいつの間にかお互いに何処の誰とも知らない男と入れ替わってしまってな、今あんたが丁寧に挨拶をした女とつながっているんだよ。』

 こんなことを言ったらそれこそ火を噴くような大騒ぎになって法事もへったくれもなくなってしまうので「私にもいろいろ考えることがあるのよ。」という短い言葉でこの前哨戦を締めくくろうとした。

「でもね、最初に相手に会うと言ったのはあなたよ、芳恵さん。」

 佐山母は追い討ちをかけて非戦を表明している僕に威圧を加えてきた。そう言われても僕が会うといったわけではないから何とも責任の取りようもないが、入れ物が言ったことならその入れ物と合体してしまった今となっては引き下がるわけにも行くまい。

「相手の方と会わないなんて一言も言ってないでしょう。会えって言うのなら会うわよ。でもどうするか選ぶのは私だからそれは忘れないでね。さあいろいろ準備もあるんでしょう。こんなことばかり言い合っていないで行くわよ、会場へ。」

 とにかく会話に深入りしないという基本方針に従ってこの場を離れようとした僕に佐山母はぎくりとする言葉を投げつけた。

「あなた、ずい分変わったわね。別人のよう。」

 うーん、さすがに母親だけあって鋭い。そりゃそうだろう。全くの別人なんだから。しかしこればかりは現代科学を総動員してもかかわったすべての人間が深みにはまるばかりで結論は出せないことだった。

「女一人東京の都会で生きていくためにはいろいろと変わらないといけないところもあるのよ。」

 そう答えた僕にさらに圧力をかけるように佐山母は言い放った。

「だってあなた、この間いろいろ話をしてからまだ一月ばかりしか経っていないじゃない。そんなに急に変わってしまったの。」

『だから中身が全く別人に変わったと言っただろう。何度言わせれば分かるんだ。物分りが悪い女だな。』

 これは全面核戦争突入と言ってもいいくらいの危険極まりない発言なので「いろいろあるのよ、私にも。複雑な年代だしねえ。」と言った極めて曖昧かつ言われた方もフラストレーションが残る答えしか出来なかった。

「芳恵さん、今会社でとても大事なプロジェクトを手がけているんです。でもとても輝いているからきっと大丈夫ですよ。」

 そこに女土方が助け舟を出してくれた。僕はだんだん女の会話が面倒になって来ていたところだったからこの助け舟はありがたかった。ところが佐山母はまだ止める気がないようだった。

「長男の方はしっかりしていて今回ご縁もまとまって落ち着いてくれるんだけど長女の方は私たちの言うことも聞かないで結婚したと思ったら今度は何も言わないで別れてしまうし。ちっとも乳離れしてくれなくて、ねえ、本当に困ってるんですよ。」

 佐山母は女土方を相手に愚痴をこぼし始めた。確かに僕は年配の女性は嫌いではないが、あんたの乳は遠慮したい。しかし女親とそれなりに年の行った娘の会話なんてものはこんなものなのだろう。

「はいはい、誰かさんの血を引いたせいか男を引き寄せてすがらせるほどの胸もなくてねえ。男運が悪いのはそのせいかもね。」

 僕はいい加減うんざりして佐山母の前を離れた。後ろでは女土方が笑っている声が聞こえた。