「さて、飲み直しと行くか。」

 山下大尉が涼しい顔で言った。そして周りに残った者はみなその言葉に従った。私はあたりを見回して小桜を探した。小桜はまだ廊下の隅に蹲って肩を震わせていた。

「もう皆済んだ。いやな思いをさせてすまなかった。さあ部屋に戻ろう。」

 小桜を促がして部屋に戻ろうとすると高瀬が近づいて来て「この間の部屋、空いている。頃合を見て。いいな。」と耳打ちした。高瀬の厚意に私は黙って頷いた。

「武田中尉、高瀬中尉。」

 部屋に入ると山下大尉の甲高い声が飛んできた。

「この戦争がどうなろうと俺達は負けはせん。俺達は世界最強の戦闘機隊を作るんだ。そのことはよく覚えておけ。」

 これがこの男の本心なのか、それとも士気を高めるための演出なのか、私には分からなかったが、気迫に押されて反射的に不動の姿勢で「はいっ」と返事をしていた。高瀬も何時になく神妙な態度で私と同じように「はいっ。」と応じていた。

 座敷は威勢のいい話が飛び交っていた。私と高瀬はそれぞれ適当な場所に割って入って酒を注いで貰った。

「分隊士たちはたいしたもんですな。憲兵とやり合うんだから。でもそのおかげで何だか俺達の沈んだ気持ちまで元気になりました。なにしろ南洋諸島、サイパン、フィリピンと負け戦ばかりでしたからな。別に憲兵をやり込めたからってそれがどうということもないんですが。何かこう頭の上を覆っていた雲が途切れて日が差してきたようで。なあ、あの小銃を突きつけられた時の奴等の顔といったら、思い出しただけでも胸のつかえが消えてなくなっていくようで。」

 一人の下士官が痛快でたまらないといった表情で盃を煽った。

「何だか今度は勝てそうな気がします。戦闘機乗りの神様と言われた司令、歴戦の母艦搭乗員の飛行長、鬼神と言われた山下隊長、海軍戦闘機隊随一の撃墜王と言われた高藤先任、天才と言われた高瀬中尉、零戦をはるかに凌駕する新型の紫電。それに、これからもベテラン連中がぞくぞくと集まってくるそうじゃないですか。

 今まではグラマンやコルセアにうば桜の零戦で追いまくられてきましたが、今度ばかりはそうはさせません。今まで散々可愛がってもらった礼に今度こそ敵さんに一泡も二泡も吹いてもらいましょうや。」

 この下士官の言葉に座が沸き返った。そしてまるで戦に勝ったように威勢のいい言葉が飛び交う座敷に高藤飛曹長が率いる一団が姿を現すと、座はまた一段と盛り上がった。

「憲兵さん達、血迷っているのか、我々と一戦交える覚悟のようです。ここへ来る途中様子を見てきたんですが、次々に兵員を満載したトラックが駆けつけています。どうしても面子を立てる気のようです。」

 高藤上飛曹が手短に報告した。

「アメちゃんをやっつける前に憲兵さんをへこませるか。」

 山下大尉がふてぶてしいほど落ち着いた調子で言うとその場にいた者すべてがときの声を上げて賛意を示した。

「さあて、明日に備えて飲み直すか。」

 山下大尉はコップになみなみと酒を注ぐと一息に飲み干した。これを合図に一同はまた互いに酒を注ぎ合いそしてそれを飲み干した。いいかげん酒が回って座が乱れ始めたころ、私に向かって高瀬が目配せをした。その視線のほうを向くと小桜が座敷を出て行くところだった。高瀬が目配せをした訳は分かったが、後を追ってもいいものかどうか、私は躊躇っていた。高瀬がもう一度「早く行け。」とでも言うように私を睨みつけた。その高瀬の視線に追い立てられるように私は席を立って廊下に出た。

 廊下の先に小桜が待っていた。その後を付いて行くと小桜は廊下の突き当りを折れたところにある小さな階段を上がって行って引き戸を開けた。そこは四畳半ほどの小部屋になっていた。そして座敷の真中に置かれた座卓の上にはビールと少しばかりの肴が用意されていた。おそらく高瀬が仕組んだのであろうこのお膳立てに甘えることにして私は座卓の前に腰を下ろした。

 「どうぞ。」

 小桜が差し出したビールを一気に咽喉に流し込んで空になったコップを小桜に差し出した。

 「本当にどこかに移動されるのですか。」

 ビールを注ぎながら小桜が小さな声で言った。

「高瀬が言ったとおり、これまでの米軍のやり方から次は沖縄にくると思う。今の部隊は海軍に残っているベテラン搭乗員を結集して新型戦闘機を装備した精鋭部隊だから、その戦闘に参加しないということはあり得ない。そうだとすれば近いうちに西へ移動することになるだろう。」

「この戦争は本当に必要なんですか。あなた達の言っていることを聞いていると、この戦争が本当に戦わなければならない戦争とは思えなくなってきたんです。そんな戦争で、もう誰も死んで欲しくない。もうたくさんなんです。」

「戦争は始めるよりもやめる方がずっと難しいと何かの本でそんなことを読んだように思うが、本当にそんな気がする。」

「戦争が幾ら続いても、私はそんな戦争は見たくはありません。」

「えっ」

 私は返す言葉がなかった。それが当然の感覚なのだろうとそう思った。

「それが普通の人間の感覚なんだろうな。」

 小桜は答える代わりに席を立って私の横に座りなおすと体を寄せてきた。

「あなたと二人だけの世界にこもってしまえば何も見なくてもいい。」

 小桜は静かな声でそう言った。しかし小桜の短い言葉には私をたじろがせる何かがあった。私は不器用に小桜を受け止めて抱きしめたまま動けずにいた。

「どこかに移動する時はきっと教えてください。」

 命令するような小桜の言葉に私は小さく頷いた。どの位時間が経っただろうか。引き戸をたたく音がして高瀬の声が聞こえた。

「武田、帰るぞ。今日はまずい。出て来い。」

 その声に機敏に反応したのは小桜だった。小桜は立ち上がると手早く裾を直して引き戸を開けた。高瀬が『早く来い。』と言うように手招きをしていた。高瀬がそう言うのだから余程緊迫しているのだろうと思い、急いで部屋を出た。

「どうもおかしな話になってきた。憲兵隊に殴り込むと皆息巻いている。」

 高瀬が珍しく困った顔をしていた。

「今殴り込んだらこちらの言い分が立たなくなる。何としても止めさせなくては。」

 そのまま部屋にも寄らずに高瀬と一緒に玄関先に出ると、もう全員が外に出て待っていた。

「分隊士、憲兵隊を叩き潰してやりましょう。さあ、先頭に立ってください。」

 その場にいた誰もが酒の勢いもあって妙に奮い立っていた。

「皆待ってくれ。酒の勢いを借りて乗り込んだとあっては海軍の趣旨が立たん。ここは抑えてくれ。」

 私は何とかなだめようと思ったが、誰も学生あがりの予備士官の言うことなど聞きそうもなかった。高瀬と二人、人の波の中に飲み込まれ、押し出されるように出口に向かって動き始めた時、鋭い声が飛んだ。

「待て。この件は俺が預かる。異存のある者は前に出ろ。」

 後ろを振り返ると山下大尉が立っていた。この一言でその場の雰囲気が一変した。

「隊長がああ言うんだ。隊長に任せよう。」

 高藤上飛曹がこれを追認するように声を上げた。これで誰もがすっかり牙を抜かれたようにおとなしく静まってしまった。そしておそらく山下大尉が手を廻していたのだろう、基地からの迎えのトラックの荷台に乗り込んだ。基地に着いて飛行長に報告を済ませると真っ先に寝台に大の字になって寝込んでしまったのも山下大尉だった。これだけの大事件になってしまって、明日は皇軍相撃の事態を生ずるかもしれないというのに、何故これほど落ち着いていられるのか、私にはさっぱりこの男の正体が分からなかった。ベッドに横になったが、眠れそうもなかったので起き出して士官食堂に行った。

 ドアを開けると薄暗がりの中に誰かが座っているのが見えたが、かまわずに入っていくと「こっちに来て座れよ。」という高瀬の声が聞こえた。

「小桜は何か言っていたか。」

 高瀬は湯飲みに酒を注ぐと私の前に差し出した。

「特には何も、」

 私は余計なことを悟られまいとことさらぶっきらぼうを装って答えた。

「なるほど、何か言われたんだな。『死んじゃいや。』とか、そんなところか。」

「そんなことは言っておらん。馬鹿もいいかげんにしろ。」

 別にむきになるようなことではなかったが、私はつい大きな声を出してしまった。

「何をそんなにむきになっているんだ。結構なことじゃないか。何処も彼処も『死んで来い。死んで来い。』の大合唱の中で、死ぬなと言ってくれる人がいることはありがたいことだ。武田、貴様、命を大切にしろよ。」

「この未曾有の国難を迎えて、おめおめと生きて永らえようとは思ってはおらん。予備士官でも軍人は軍人だ。」

 高瀬は私を見上げた。そしてしばらく黙って私を見つめていたが、視線をテーブルに落とすと酒の入った湯飲みを取り上げてゆっくりと口に運んだ。

「死ぬってことはそんなに簡単なことなのか。」

 酒を一口飲み込むと静かにそう言った。

「フィリピンにいた時、毎晩夢を見たよ。『明日は死んで来い。』とそう言われる夢を。明日は死ぬのか、明日は死ぬのか、明日の今ごろは俺はもう生きてはいないんだな。そう思うと無性に恐ろしくなって、汗をぐっしょりとかいて、それも鳥肌が立つような冷たい汗を、目が覚めるんだ。

 戦闘で出て行く時は、自分が死ぬなんてことは考えたこともない。敵さんと渡り合って弾が降るように飛んで来ても、自分がやられて死ぬなんてことはかけらも思ったことはなかった。基地に戻って飯を食って酒を飲んで『ああ、今日も生き残ったな。』そう思った時にやってくるんだ。その日のことを思い出すと恐ろしくて恐ろしくて体ががたがたと震え出すんだ。あの時、自分を翳めた弾が当たっていたら、俺は今ごろ海の底か、ジャングルの中で焼け焦げて朽ち果てているんだってな。そんな思いが次から次へと頭に浮かんでくるんだ。紙一重だからな、自分の弾が相手に当たるか、相手の弾が自分に当たるかなんて。思い出せは肝が縮みあがることなんか掃いて捨てるほどあるさ。

 だけど、そんなところを部隊の奴等には見せられないから、あの熱帯のくそ暑い兵舎の中で毛布を頭から被って寝たふりをしているんだ。特攻隊の奴等な、眠らないんだ。明日出て行くという晩は。横になったまま、椅子に座ったまま、それぞれ朝が来るまでじっと起きているんだ。恐ろしくて眠れないんじゃない。眠ってしまうと生き物としての人間の本性を抑えることができなくなってしまう。それでじっと起きているんだ。そして翌朝、何もなかったようにさわやかな笑顔で出て行くんだ。

 直掩の我々の方が一箇所に固まって息を潜めて朝を待つんだ。直掩だって出て行けばほとんど帰っちゃ来ないのにな。それでも必死と決死は天と地ほども違うんだよ。覚悟だとか、心構えだとか、それはそれで理性の問題なのかもしれないが、生き物の本能としてみれば死ぬってことはとんでもなく重いことなのかもしれない。

 こんな時代、いっそ手っ取り早く勇ましさを装って死んじまった方が楽なのかもしれないが、そうして皆が死んでしまうと、この国を守って支えていく者がいなくなってしまうからなあ。武田、『生きていてくれ。』という者がいるのなら生きればいいじゃないか。勿論この時代に生きている者としての責任から逃れてというわけではないが、ただお題目のようにヒステリックに『死ね、死ね。』というだけじゃなくて、生きるということを真剣に考えるべきじゃないのか。」