「今日は慣れた零戦で行きましょう。乗り物は向こうに用意してありますから。」
紫電に見入っていた私の後ろから高藤飛曹長に声を掛けられて後ろを振り返った。
「今日はまだこいつは見るだけにしといてください。でも近いうちにいやって言う程乗れるようになりますから。」
高藤飛曹長の後について指揮所に行き、訓練開始の申告をするとエプロンでエンジンを回している零戦の方に駆け出した。走りながら高藤上飛曹は私に、「今日は私が先に行きますからついて来てください。」と声を掛けた。
『つまり任用試験のようなものか。』
少しばかり嫌な気がしたが、それも操縦席に納まると忘れてしまった。離陸の時指揮所を見渡すと何時の間にか司令、飛行長から山下大尉までが椅子に座ってこちらを見つめていた。
「どうせ俄か雇いだ。」
そう呟いて腹を決めるとスロットルを開いて滑走を始めた。先には高藤上飛曹の機体がもう滑走路を蹴って飛び立とうとしていた。車輪が滑走路を離れて機体が浮き上がると同時に車輪を格納して先を旋回しながら高度を取っている高藤機を追った。高度三千に上がるといきなり急上昇から失速反転、機首を戻して連続宙返り、左右のロール、急降下から引き起こして急上昇、そのまま宙返りをして水平に戻してから左右の連続垂直旋回と息もつかせない高等曲技飛行の連続だったが、それでもこのくらいは難無く追従できるくらいの技量は持ち合わせていた。
一通り機動飛行が終わると高藤機は一旦私の横に機体を並べて身振りで空戦機動に入ることを示し、すぐに急横転で翼を翻して離れて行った。追従しても無駄なことは分かっていたので私は高藤機とは反対の方向に機体を振って大きく旋回しながら高藤機の位置を確認しようとした。
遮二無二後を追ってこない私に面食らったのか、高藤機は千メートルほど上空で旋回しながら様子を見ているようだったが、そのうちに狙いすましたように後上方からこちらに向かって降下して来た。
私は以前に高瀬から聞いていたとおり機体を背面にするとそのまま思い切って操縦桿を引き、背面急降下に入った。そして背面のまま徐々に引き起こして私とは反対の方向に降下して行った高藤機を首が捩れるほど一杯に捻って視野の端で捕えながらその行く手を追った。そして引き起こして上昇して来た高藤機を目がけて、もう一度機体を背面にするとそのまま急降下して突っ込んだ。
自分に向かって突っ込んでくる私を発見した高藤機は小気味良く切り返して真っ直ぐに私の機を目がけて上昇して来た。双方の相対速度は千キロを超えていただろう。あっという間に接近して機体を躱す間もあればこそ、二機はごく至近距離をすれ違った。後で聞いたところ地上で見ていた幹部達は『衝突したか。』と息を呑んだ者もいれば救助のために走り出した者もいたそうだ。
私は『距離が近い。』とは思ったが、衝突しそうになるほど接近していたとは思わず、そのまま地上すれすれまで降下して這うように安全圏へ逃れた。へたに頭を上げると上から狙い撃ちにされると考えたからだったが、これがいけなかった。地上では私が墜落したと大騒ぎになっていた。
そんな地上の騒ぎなど全く知らずに大きく横須賀基地の外側を回って滑走路に滑り込んだ。そして指揮所に終了の申告に行くと佐山少佐が「あまり派手なことをしてはらはらさせるな。」と小言を言った。山下大尉は何も言わずにやにや笑いながら私を見ていた。
私は先に降りていた高藤上飛曹のところに行って危険な目に遭わせたことを謝罪した。高藤上飛曹は「実戦だったら私が落とされていたかも知れません。少しばかり慌てましたよ。零戦であんな飛び方をするのは高瀬中尉くらいと思っていました。」と言って笑った。
午後は紫電の機体構造と操縦法の説明があり、それが終わるとその日の作業は終了した。宿舎に引き上げる途中、聞きなれない爆音が耳に入ったので音の聞こえてくる方向を見上げると数機の友軍機らしい機影が目に入った。
「紫電を取りに行った連中が戻ったぞ。」
誰かが叫ぶのが聞こえた。機影は徐々に大きくなって鮮やかな濃緑色に塗装された紫電二一型が四機滑走路に滑り込んだ。
「試作機じゃなく量産型だ。」
隊員達は口々に叫びながら真新しい機体に駆け寄った。私は皆の後からゆっくりと四機の新型戦闘機に近づいて行った。その中の一機から高瀬が降りてくるのが見えた。高瀬も私を見つけて軽く手を振って見せた。
「とうとうお出でになったな。」
飛行機から降りて来た高瀬は私に向かってぞんざいな口調で言った。
「ところで今晩貴様の歓迎会を兼ねてこの間の料亭に行くか。四国の肴と酒を持ってきているんだ。あの芸者、ほら、小桜もお前に会いたがっているぞ。」
高瀬は私が何と答えようと歓迎会は既成事実として実行を決めているようだった。そして本当に出先から抱えて来た一升瓶と肴をいれた風呂敷包みをぶら下げて宿舎へ歩いて行った。後に残された新型戦闘機にはもう整備員が取り付いて整備を始めていたが、その周りを基地に残っていた搭乗員が取り巻いて物珍しそうに眺めていた。
『どうせこれからいやと言うほど見られるさ。自分の棺桶になる乗り物なんだから。』
何だか高瀬が好みそうな言葉を心の中でつぶやきながら私はゆっくりと宿舎に向かって歩いていった。着替えを済ませて宿舎のベッドに寝転んでいると高瀬が戻って来た。
「皆、一生懸命乗り物を見ているが、自分の棺桶にはやはり興味が湧くのかな。」
窓の外に視線を投げながら言った高瀬の言葉に私は吹き出してしまった。
「何が可笑しいんだ。」
怪訝な顔をして振り返った高瀬には答えもしないで私は笑い続けた。
「おかしな奴だな。何とも悲しいことなのに。何故そんなに笑うのかな。」
高瀬に真新しい塗料を纏って身繕いした新型戦闘機に見入っている搭乗員達を見ていて、自分も同じことを思ったこと、そして高瀬もきっと同じことを言うだろうと思っていたことなどを話すと高瀬も笑い出した。そうして二人でしばらく笑い合った。
「貴様もニヒリズムが分かってきたようだな。ところで今日は外泊許可を貰って来たぞ、飛行長から。小桜な、本気でお前に惚れたらしい。あれから毎日、お前がくるのを待っているようだ。特に海軍の客が来た時には駆け出すようにして玄関先に出迎えているらしい。俺も彼女に何度かお前のことを聞かれたよ。」
突然高瀬に小桜のことを言われて小桜と過ごした一夜を思い出した。たった一人の肉親を戦争に奪い取られて身の置き所もなく彷徨っていた小桜が私に何を求めたのか、そんなことにさえあまりに無頓着だった自分に後ろめたさを感じもしたが、死に神の大鎌のように人の絆や個人の感情を絶ち切って憚らない戦争の中にあって、しかも軍人という立場で女一人の心の平穏を守ってやることを考えるなどとんでもないことのように思えた。
「戦争をしているんだ。芸妓一人に構っていられるか。」
照れ隠しもあって私はわざとぶっきらぼうに言い放った。
「確かに俺達は戦争をしている。お前の言うことも尤もかも知れない。ただ一人の人間の心の平穏さえも考えてやれない者に国を守ることなんか出来るのかな。お前のことを言っているわけじゃない。一般的なことを言っているんだがな。まあ、とにかく会って声くらい掛けてやれ。戦争をしている軍人だけが苦労しているわけじゃない。軍人だけが戦争をしているわけじゃないんだから。」
高瀬は何時になく殊勝なことを口にした。私もそんな高瀬に気圧されて「分かった。」とだけ一言答えた。