部屋に帰るとストーブの周りに数人の士官が集まっていた。
「本日筑波から着任しました武田中尉です。よろしくお願いします。」
入口を入ったところで挨拶をすると、全員が私の方を振り返った。
「堅い挨拶は止めてこっちに来いよ。武田中尉、今夜は歓迎会だ。飲もう。」
よく通る高い声が聞こえた。その声の源を見るとストーブに薪をくべている士官がいた。それが飛行隊長の山下大尉だった。痩身、細面の女性的な青年で、これが「比島海軍航空隊に山下有り。」と勇名を馳せた撃墜王とは俄には信じられないほど穏やかな容貌だった。このやさ男は正面から敵に突っ込んで行って撃ち合う戦法で高瀬を凌ぐ十六機の敵機を撃墜したという話だった。
「武田中尉、君は高瀬中尉と同期だと聞いたが、実戦の経験はあるのか。」
ストーブに手を翳しながら山下大尉が聞いた。
「筑波では待機要員として迎撃に上がって、B二九を追いかけたことはありますが、会敵できなかったので敵と実際に撃ち合ったことはありません。」
「そうか、実戦要員なら頼もしい。さて、歓迎会用の酒を調達して来るか。おい、誰か手を貸してくれ。」
山下大尉が立ち上がると二、三人の士官がその後を追った。そしてしばらくすると各々一升瓶やビールの入った籠を下げて戻って来た。
「従兵、従兵。」
一人の士官が大声を上げた。
「お呼びですか。」
ここに来た時、私を案内してくれた若い兵隊が顔を出した。
「何か肴になるようなものはないか。用意してくれないか。何か気の利いたものはあるか。」
若い兵隊は困ったような顔をした。
「夕食は用意が出来ておりますが、」
途中まで言いかけて、答えに窮して口を噤んでしまった。
「いつもの食事で構わない。用意してくれ。」
山下大尉が助け船を出した。従兵は明るい顔に戻って「分かりました。」と答えて部屋を出ていこうとした。
「待て。これを持っていけ。」
山下大尉は従兵に一升瓶を差し出した。そしてためらっている従兵のところまで酒を持っていくと手に握らせて送り出した。
「いくら海軍でも内地では物資もそうは自由にはならんだろう。あまり無理難題を言ってはあの子達が可哀相だ。」
小一時間もするとさっきの従兵が籠を下げて戻って来た。
「地元の漁師のところでさっきの酒と交換してきました。」
そう言って籠に入った小鯵を差し出した。山下大尉は小鯵を受け取りながら「それじゃ、お前達の飲む分がないじゃないか。」と言って別の酒を差し出そうとした。それを慌てて断ろうとする従兵に「やるんじゃない。これを塩、小麦粉、油とそれから揚げ物をする鍋に交換してくれ。落ちたりと言えども帝国海軍にもそのくらいの物資はあるだろう。」と言って一升瓶を持たせた。これには全員が大笑いだった。
支度が揃うと山下大尉は器用な手つきで鯵を卸してたたきを作った。残った中骨は塩と小麦粉をまぶしてストーブにかけた鍋できれいに揚げて器用に骨煎餅を作ってみせた。
「瀬戸内の漁師の次男坊だ。こんなことは朝飯前だよ。」
出来上がった料理を前に胸を張ってみせた山下大尉を見て、また皆が笑った。酒盛りが始まったが、誰に気を使うでもなく皆が酒を飲んでは自由に話していた。そのうちに下士官が数人顔を出した。
「隊長、新しい分隊士が来られたそうで。我々もご挨拶申し上げていいですか。」
それぞれにつまみや酒を手に持って部屋に入って来た。軍隊は士官と下士官、兵は区別、いや差別と言ってもいいほど厳重な区分があった。士官の方から下士官、兵のところに行くことはあっても、下士官や兵が自発的に士官次室や士官室に来ることは滅多になかった。
「おお、入れ。入れ。筑波から来た武田中尉だ。向こうでは待機要員だったそうだ。よろしくやってくれ。」
山下大尉は笑顔で下士官たちを招き入れた。私は立ち上がって「武田だ。よろしく。」と会釈をした。下士官の方も軽く敬礼をして氏名を申告してから山下大尉に招かれるままに席に着いた。型通り乾杯から始まった酒宴は始めのうちこそ遠慮がちでぎこちなさがあったものの酒がまわるにつれて賑やかさを増して来た。
この場にいる誰もが皆底抜けに明るかったし、皆屈託がなかった。これが戦に負け続けている軍隊とは思えなかった。実際ここにいる者は誰も自分達が戦争に負けているなどとはかけらも思っていなかったのだろう。戦争には負けていても個々の戦闘に敗れたことはなかったのだろうし、これからも負ける気はしなかった違いない。
「武田中尉、武田中尉。」
呼ばれるままに振り返ると一人の下士官が私の方を向いて笑っていた。
「明日から空戦訓練です。分からんことは何でも聞いてください。知っていることは皆教えますから。しかしコツは自分の体で覚えてください。それが一番の方法ですし、それ以外には空戦に強くなる手はありません。高瀬中尉が話していました。『武田中尉はなかなか勘がいい。』と。今日は出張で出掛けていますが、あの方は天才ですな。うちの隊長と同じです。私も敵わんかも知れません。その高瀬中尉が言うのだから大丈夫です。大いに腕を上げて敵さんをバシバシ撃墜して下さい。」
私はこの下士官の胸に縫い付けられた名札に目をやった。さっきの自己紹介では名前が覚えられなかったからだった。その名札には『高藤飛曹長』と書かれていた。
「高藤飛曹長、海軍は何年になるのか。」
まだどことなくあどけなさが感じられるその容貌に似合わない妙にふけ込んだ言葉が高藤飛曹長から返って来た。
「そうですなあ。一五歳の時に海軍に入りましたから、もう九年にもなりますか。随分長くお世話になったもんですなあ。」
「戦闘機には何時から乗っているのか。」
「はあ、開戦以来ですから、もうかれこれ三年にもなりますか。ずっと瑞鶴に乗っとりましたが、レイテの戦で母艦がいかれてしまいましたので、ここに送られました。あの時は母艦を守っておりましたが、敵の数が多すぎてどうにもなりませんでした。空襲の合間に海にどぼんして駆逐艦に拾ってもらいました。自分は運がよかったです。拾ってもらった艦が沈められて命を落とした者もおりますから。戦の神様は時々気まぐれに惨いことをなさります。」
私は実際の二倍も年をとっているような口の聞き方をするこの戦闘機乗りに興味を持った。
「高藤飛曹長はこれまでに何機くらい敵機を撃墜したのか。」
「さて、何機くらいですかね。三、四十機も撃墜しましたか。協同もありますので。」
「高藤上飛曹の撃墜数は六八機だよ、公式には。その他に協同撃墜もあるが、ほとんど彼が撃墜したようなものだから。実数は百機を超えるだろう。」
山下大尉が横から口を挾んだ。
「私は三年で七〇機、隊長はほんの二、三か月で一六機、私よりも腕は隊長の方がずっと上ですよ。」
実戦を経験していない私は好奇心で高藤上飛曹に敵機を撃墜するこつを聞いてみた。
「別に特別なことは何もありません。敢えて言えば先に敵を見つけて、出来るだけ有利な位置から攻撃すること。そして決して無理をしないこと。それだけですよ。私は決して無理はしませんでした。敵が多ければ逃げましたよ。おっと、こんなことを言うと隊長からお目玉をくらっちまうぞ。」
「本日筑波から着任しました武田中尉です。よろしくお願いします。」
入口を入ったところで挨拶をすると、全員が私の方を振り返った。
「堅い挨拶は止めてこっちに来いよ。武田中尉、今夜は歓迎会だ。飲もう。」
よく通る高い声が聞こえた。その声の源を見るとストーブに薪をくべている士官がいた。それが飛行隊長の山下大尉だった。痩身、細面の女性的な青年で、これが「比島海軍航空隊に山下有り。」と勇名を馳せた撃墜王とは俄には信じられないほど穏やかな容貌だった。このやさ男は正面から敵に突っ込んで行って撃ち合う戦法で高瀬を凌ぐ十六機の敵機を撃墜したという話だった。
「武田中尉、君は高瀬中尉と同期だと聞いたが、実戦の経験はあるのか。」
ストーブに手を翳しながら山下大尉が聞いた。
「筑波では待機要員として迎撃に上がって、B二九を追いかけたことはありますが、会敵できなかったので敵と実際に撃ち合ったことはありません。」
「そうか、実戦要員なら頼もしい。さて、歓迎会用の酒を調達して来るか。おい、誰か手を貸してくれ。」
山下大尉が立ち上がると二、三人の士官がその後を追った。そしてしばらくすると各々一升瓶やビールの入った籠を下げて戻って来た。
「従兵、従兵。」
一人の士官が大声を上げた。
「お呼びですか。」
ここに来た時、私を案内してくれた若い兵隊が顔を出した。
「何か肴になるようなものはないか。用意してくれないか。何か気の利いたものはあるか。」
若い兵隊は困ったような顔をした。
「夕食は用意が出来ておりますが、」
途中まで言いかけて、答えに窮して口を噤んでしまった。
「いつもの食事で構わない。用意してくれ。」
山下大尉が助け船を出した。従兵は明るい顔に戻って「分かりました。」と答えて部屋を出ていこうとした。
「待て。これを持っていけ。」
山下大尉は従兵に一升瓶を差し出した。そしてためらっている従兵のところまで酒を持っていくと手に握らせて送り出した。
「いくら海軍でも内地では物資もそうは自由にはならんだろう。あまり無理難題を言ってはあの子達が可哀相だ。」
小一時間もするとさっきの従兵が籠を下げて戻って来た。
「地元の漁師のところでさっきの酒と交換してきました。」
そう言って籠に入った小鯵を差し出した。山下大尉は小鯵を受け取りながら「それじゃ、お前達の飲む分がないじゃないか。」と言って別の酒を差し出そうとした。それを慌てて断ろうとする従兵に「やるんじゃない。これを塩、小麦粉、油とそれから揚げ物をする鍋に交換してくれ。落ちたりと言えども帝国海軍にもそのくらいの物資はあるだろう。」と言って一升瓶を持たせた。これには全員が大笑いだった。
支度が揃うと山下大尉は器用な手つきで鯵を卸してたたきを作った。残った中骨は塩と小麦粉をまぶしてストーブにかけた鍋できれいに揚げて器用に骨煎餅を作ってみせた。
「瀬戸内の漁師の次男坊だ。こんなことは朝飯前だよ。」
出来上がった料理を前に胸を張ってみせた山下大尉を見て、また皆が笑った。酒盛りが始まったが、誰に気を使うでもなく皆が酒を飲んでは自由に話していた。そのうちに下士官が数人顔を出した。
「隊長、新しい分隊士が来られたそうで。我々もご挨拶申し上げていいですか。」
それぞれにつまみや酒を手に持って部屋に入って来た。軍隊は士官と下士官、兵は区別、いや差別と言ってもいいほど厳重な区分があった。士官の方から下士官、兵のところに行くことはあっても、下士官や兵が自発的に士官次室や士官室に来ることは滅多になかった。
「おお、入れ。入れ。筑波から来た武田中尉だ。向こうでは待機要員だったそうだ。よろしくやってくれ。」
山下大尉は笑顔で下士官たちを招き入れた。私は立ち上がって「武田だ。よろしく。」と会釈をした。下士官の方も軽く敬礼をして氏名を申告してから山下大尉に招かれるままに席に着いた。型通り乾杯から始まった酒宴は始めのうちこそ遠慮がちでぎこちなさがあったものの酒がまわるにつれて賑やかさを増して来た。
この場にいる誰もが皆底抜けに明るかったし、皆屈託がなかった。これが戦に負け続けている軍隊とは思えなかった。実際ここにいる者は誰も自分達が戦争に負けているなどとはかけらも思っていなかったのだろう。戦争には負けていても個々の戦闘に敗れたことはなかったのだろうし、これからも負ける気はしなかった違いない。
「武田中尉、武田中尉。」
呼ばれるままに振り返ると一人の下士官が私の方を向いて笑っていた。
「明日から空戦訓練です。分からんことは何でも聞いてください。知っていることは皆教えますから。しかしコツは自分の体で覚えてください。それが一番の方法ですし、それ以外には空戦に強くなる手はありません。高瀬中尉が話していました。『武田中尉はなかなか勘がいい。』と。今日は出張で出掛けていますが、あの方は天才ですな。うちの隊長と同じです。私も敵わんかも知れません。その高瀬中尉が言うのだから大丈夫です。大いに腕を上げて敵さんをバシバシ撃墜して下さい。」
私はこの下士官の胸に縫い付けられた名札に目をやった。さっきの自己紹介では名前が覚えられなかったからだった。その名札には『高藤飛曹長』と書かれていた。
「高藤飛曹長、海軍は何年になるのか。」
まだどことなくあどけなさが感じられるその容貌に似合わない妙にふけ込んだ言葉が高藤飛曹長から返って来た。
「そうですなあ。一五歳の時に海軍に入りましたから、もう九年にもなりますか。随分長くお世話になったもんですなあ。」
「戦闘機には何時から乗っているのか。」
「はあ、開戦以来ですから、もうかれこれ三年にもなりますか。ずっと瑞鶴に乗っとりましたが、レイテの戦で母艦がいかれてしまいましたので、ここに送られました。あの時は母艦を守っておりましたが、敵の数が多すぎてどうにもなりませんでした。空襲の合間に海にどぼんして駆逐艦に拾ってもらいました。自分は運がよかったです。拾ってもらった艦が沈められて命を落とした者もおりますから。戦の神様は時々気まぐれに惨いことをなさります。」
私は実際の二倍も年をとっているような口の聞き方をするこの戦闘機乗りに興味を持った。
「高藤飛曹長はこれまでに何機くらい敵機を撃墜したのか。」
「さて、何機くらいですかね。三、四十機も撃墜しましたか。協同もありますので。」
「高藤上飛曹の撃墜数は六八機だよ、公式には。その他に協同撃墜もあるが、ほとんど彼が撃墜したようなものだから。実数は百機を超えるだろう。」
山下大尉が横から口を挾んだ。
「私は三年で七〇機、隊長はほんの二、三か月で一六機、私よりも腕は隊長の方がずっと上ですよ。」
実戦を経験していない私は好奇心で高藤上飛曹に敵機を撃墜するこつを聞いてみた。
「別に特別なことは何もありません。敢えて言えば先に敵を見つけて、出来るだけ有利な位置から攻撃すること。そして決して無理をしないこと。それだけですよ。私は決して無理はしませんでした。敵が多ければ逃げましたよ。おっと、こんなことを言うと隊長からお目玉をくらっちまうぞ。」