女土方はママから受け取ったカクテルを口に運んで舐めるように飲むと私を見て笑った。
「その奇想天外な話が本当じゃないかって思うほどあなたは変わったわ。でもきっと他の理由があるんでしょう。あなたが変わったのは。」
僕はちょっと薄笑いを浮かべて女土方を見た。
『こんな話を端から信じるとは思っていないけどそれが正真正銘の真実なんだよ。でもまあ誰にも言えないことをお前さんに話して少しすっきりしたよ。』
心の中でそう言っておいてから「ああ、お腹が空いた。」と独り言を呟いてビールを一口飲み込みフレンチフライをつまんで口の中に放り込んだ。
「そういう男の人みたいな食べ方をするあなたを見ているとさっきの話が本当じゃないかって思ってしまうわ。でもあり得ないわよね。人間の中身が入れ替わるなんて。」
女土方は僕の方をじろじろと上から下まで眺め回してから言葉を続けた。
「そのパンツねえ、私だってカーゴパンツは穿くわよ。でもねえ、女にとってはカーゴパンツもファッションでしょう。あなたの着こなしは穿き易さとか動き易さとかそういう合理性しか感じないのよね。シャツも靴もその髪型も。ついこの間まであなたは結構おしゃれで何よりも女らしくあろうとしていたわ。それをその格好にその化粧。こっちを向いて御覧なさい。ちょっと直してあげるから。」
僕は女土方に言われたとおり顔を向けると女土方は化粧道具を取り出して手際よく僕の顔のあちこち手を入れていった。
「ほら、最低でもこのくらいはしなさいよ。いくら何でも。あなたもきっとそんなことは分かってるんだろうけどね。」
女土方が差し出した鏡を覗き込むと確かに遥かにましになった佐山芳恵の顔が写っていたが僕にとって所詮は化粧なんてまやかしのようなものだった。
『そりゃお前は化粧に関しては長い経験があるだろうからうまいだろうよ。自慢じゃないがこっちは口紅どころか生まれてこの方唇につけたことがあるのはメンソレータムのリップスティックくらいなものなんだからな。』
心の中でそうへこませておいてからちょっと言い訳のように言葉を継いで繕った。
「何だか最近かわいい女を演じるのが面倒になってね。もうかわいいなんておだてられて浮かれる年でもないんだからかわいくなくてもいいんじゃないかなって思うんだけど。いけないのかな。」
「うーん、どうかなあ。きっとあなたをそんなに変える何かがあったんでしょうけどねえ。でもね、そんなところがとても素敵よ、今のあなた。あのね、あなたのこと何となくかわいい女を装っているところがね、いま一つかなって思っていたけど。あ、ごめんなさいね、こんな言い方して。」
過去のことに深くかかわって論じるのは僕にとってはタブーだったので適当な話題を探そうと店の中を見回した。ここがどういうところかは分からなかったが、やはりその手の女が集まるところなのか店の中は何組かの女性カップルで占められていた。
「ねえ、こんなこと聞いていいのかどうか分からないけど、ここってそういう人の集まる場所なの。」
女土方はカウンターに両肘をついて両手でグラスを抱えるように持って相変わらずなめるようにカクテルを飲みながら天井を向いて答えた。
「そうね、多いわね。でも普通の人も来るし、男の常連さんもいるわ。ねえ、いきなりこんなこと言ったら驚くかも知れないけど今度の週末、あなた時間空いてるかな。私に少し時間をくれない。」
「いいわよ、どうすればいい。何処に行けばいいの。」
ここまで来たら乗りかかった船なんだろうし週末の安息を馬の骨氏の来襲に脅えながら過ごすよりも自分の体のことはひとまず置いておいて『毒食らわば皿まで』の心境でこの際久しぶりに女の感触を味わうのも一興という極めて刹那的かつ即物的な思考に基づいて二つ返事で承知した。
僕が承知すると女土方の顔が急に明るく輝いた。
「え、本当、うれしいわ。きっと断られると思ってた。」
女土方はバッグからメモを取り出すとある鉄道の駅から自宅までの略図を書いて差し出した。
「私の携帯は知っているでしょう。駅で電話してくれれば迎えに行くわ。」
「あのね、私はどうすればいいの。あなたのところに泊まるつもりで支度をして行った方がいいの。」
「え、私のところに泊まってくれるの。本当に。」
「あなたが迷惑でなかったら。あなたのところに私が泊まってもかまわないの。」
「私はかまわないどころか本当にうれしいわ。」
女土方は会社で見せる近寄り難い乾いた冷淡で合理的な表情も何処へ消え去って子供のようにはしゃいだ華やいだ表情を見せた。
「咲ちゃん、いいお友達が出来てよかったわね。」
カウンターの中からママが声をかけて来た。なんだかママもうれしそうだった。女土方はママに向かって微笑みながら何度も頷いていた。
金曜は一日中落ち着かなかった。体が女だからといってそれを制御している脳の中味は男なんだからほとんど初対面の女のところに泊りがけで出かけることはワクワクする出来事だったが、向こうは僕を女と思っているビアンだろうし、いざとなった時に自分のものではないこの体がどう反応するかそれを考えると不安がないとは言えなかった。
そしてこの先女土方とどんな関係になっていくのかも心を悩ませる問題だった。それならいっそ断ってしまって静かに法事に備えればいいじゃないかと言うかもしれないが、そこはそれ男の性と言うか好奇心と言うかせっかくの機会なのだから取り敢えずお願いしておきますという気持ちは強かった。
そんなことを考えながらもその日の夜遅くなってやっと企画書を書き上げた。キャッチコピーを何としようか最後まで考えたが、よく意味が分かるように、
「英語を戦い抜くコース」
「英語をファッションするコース」
の二つに決めた。
帰る時に更衣室の前で辺りを見回したが、女土方は安心したのかさすがに潜んではいなかった。考えてみれば職場の更衣室で待ち伏せて唇を奪うと言うのはいくら女同士とは言っても相当に大胆な行為には違いなかった。女同士とは言ってもひとつ間違えば問題にもなりかねないことだった。
普段冷静沈着の見本のような女土方には似つかわしくないやり方だったが、それなりに思い詰めたものがあったのかもしれないし、あるいは僕が拒否しないという彼女なりの成算があったのかもしれない。その辺も明日ゆっくり聞いてみたかった。
「その奇想天外な話が本当じゃないかって思うほどあなたは変わったわ。でもきっと他の理由があるんでしょう。あなたが変わったのは。」
僕はちょっと薄笑いを浮かべて女土方を見た。
『こんな話を端から信じるとは思っていないけどそれが正真正銘の真実なんだよ。でもまあ誰にも言えないことをお前さんに話して少しすっきりしたよ。』
心の中でそう言っておいてから「ああ、お腹が空いた。」と独り言を呟いてビールを一口飲み込みフレンチフライをつまんで口の中に放り込んだ。
「そういう男の人みたいな食べ方をするあなたを見ているとさっきの話が本当じゃないかって思ってしまうわ。でもあり得ないわよね。人間の中身が入れ替わるなんて。」
女土方は僕の方をじろじろと上から下まで眺め回してから言葉を続けた。
「そのパンツねえ、私だってカーゴパンツは穿くわよ。でもねえ、女にとってはカーゴパンツもファッションでしょう。あなたの着こなしは穿き易さとか動き易さとかそういう合理性しか感じないのよね。シャツも靴もその髪型も。ついこの間まであなたは結構おしゃれで何よりも女らしくあろうとしていたわ。それをその格好にその化粧。こっちを向いて御覧なさい。ちょっと直してあげるから。」
僕は女土方に言われたとおり顔を向けると女土方は化粧道具を取り出して手際よく僕の顔のあちこち手を入れていった。
「ほら、最低でもこのくらいはしなさいよ。いくら何でも。あなたもきっとそんなことは分かってるんだろうけどね。」
女土方が差し出した鏡を覗き込むと確かに遥かにましになった佐山芳恵の顔が写っていたが僕にとって所詮は化粧なんてまやかしのようなものだった。
『そりゃお前は化粧に関しては長い経験があるだろうからうまいだろうよ。自慢じゃないがこっちは口紅どころか生まれてこの方唇につけたことがあるのはメンソレータムのリップスティックくらいなものなんだからな。』
心の中でそうへこませておいてからちょっと言い訳のように言葉を継いで繕った。
「何だか最近かわいい女を演じるのが面倒になってね。もうかわいいなんておだてられて浮かれる年でもないんだからかわいくなくてもいいんじゃないかなって思うんだけど。いけないのかな。」
「うーん、どうかなあ。きっとあなたをそんなに変える何かがあったんでしょうけどねえ。でもね、そんなところがとても素敵よ、今のあなた。あのね、あなたのこと何となくかわいい女を装っているところがね、いま一つかなって思っていたけど。あ、ごめんなさいね、こんな言い方して。」
過去のことに深くかかわって論じるのは僕にとってはタブーだったので適当な話題を探そうと店の中を見回した。ここがどういうところかは分からなかったが、やはりその手の女が集まるところなのか店の中は何組かの女性カップルで占められていた。
「ねえ、こんなこと聞いていいのかどうか分からないけど、ここってそういう人の集まる場所なの。」
女土方はカウンターに両肘をついて両手でグラスを抱えるように持って相変わらずなめるようにカクテルを飲みながら天井を向いて答えた。
「そうね、多いわね。でも普通の人も来るし、男の常連さんもいるわ。ねえ、いきなりこんなこと言ったら驚くかも知れないけど今度の週末、あなた時間空いてるかな。私に少し時間をくれない。」
「いいわよ、どうすればいい。何処に行けばいいの。」
ここまで来たら乗りかかった船なんだろうし週末の安息を馬の骨氏の来襲に脅えながら過ごすよりも自分の体のことはひとまず置いておいて『毒食らわば皿まで』の心境でこの際久しぶりに女の感触を味わうのも一興という極めて刹那的かつ即物的な思考に基づいて二つ返事で承知した。
僕が承知すると女土方の顔が急に明るく輝いた。
「え、本当、うれしいわ。きっと断られると思ってた。」
女土方はバッグからメモを取り出すとある鉄道の駅から自宅までの略図を書いて差し出した。
「私の携帯は知っているでしょう。駅で電話してくれれば迎えに行くわ。」
「あのね、私はどうすればいいの。あなたのところに泊まるつもりで支度をして行った方がいいの。」
「え、私のところに泊まってくれるの。本当に。」
「あなたが迷惑でなかったら。あなたのところに私が泊まってもかまわないの。」
「私はかまわないどころか本当にうれしいわ。」
女土方は会社で見せる近寄り難い乾いた冷淡で合理的な表情も何処へ消え去って子供のようにはしゃいだ華やいだ表情を見せた。
「咲ちゃん、いいお友達が出来てよかったわね。」
カウンターの中からママが声をかけて来た。なんだかママもうれしそうだった。女土方はママに向かって微笑みながら何度も頷いていた。
金曜は一日中落ち着かなかった。体が女だからといってそれを制御している脳の中味は男なんだからほとんど初対面の女のところに泊りがけで出かけることはワクワクする出来事だったが、向こうは僕を女と思っているビアンだろうし、いざとなった時に自分のものではないこの体がどう反応するかそれを考えると不安がないとは言えなかった。
そしてこの先女土方とどんな関係になっていくのかも心を悩ませる問題だった。それならいっそ断ってしまって静かに法事に備えればいいじゃないかと言うかもしれないが、そこはそれ男の性と言うか好奇心と言うかせっかくの機会なのだから取り敢えずお願いしておきますという気持ちは強かった。
そんなことを考えながらもその日の夜遅くなってやっと企画書を書き上げた。キャッチコピーを何としようか最後まで考えたが、よく意味が分かるように、
「英語を戦い抜くコース」
「英語をファッションするコース」
の二つに決めた。
帰る時に更衣室の前で辺りを見回したが、女土方は安心したのかさすがに潜んではいなかった。考えてみれば職場の更衣室で待ち伏せて唇を奪うと言うのはいくら女同士とは言っても相当に大胆な行為には違いなかった。女同士とは言ってもひとつ間違えば問題にもなりかねないことだった。
普段冷静沈着の見本のような女土方には似つかわしくないやり方だったが、それなりに思い詰めたものがあったのかもしれないし、あるいは僕が拒否しないという彼女なりの成算があったのかもしれない。その辺も明日ゆっくり聞いてみたかった。