「この戦争の原因はともかく米英は圧倒的な力を持って日本に迫ってきているんだから今は戦わなければいけない時なのかもしれない。日本と日本民族の存亡をかけて。
 そういうわけで戦う理由が見つかったことだし、鬼畜米英と戦う前に目の前にいる素敵な敵さんと一戦交えるとするか。」

高瀬についた若い方の女はそれで充分に意味が通じたらしく立ち上がって廊下を何処かに小走りに走って行ってまたすぐに戻って来た。

「小桜姉さん、こちらの海軍さん、お願いね。さあ、いいわよ。行きましょう。」

 高瀬は女に手を引かれて部屋を出て行った。私は小桜と呼ばれた芸者と二人部屋に残された。

「支度は出来ていますけど、どうします。もう少し飲みますか。それとも・・・」

 私は小桜と呼ばれた女の顔を見て苦笑してしまった。何だかあまりに素っ気ない言い方で気勢を殺がれてしまったからだった。

「何故笑うんですか、何がおかしいんですか。」

「君は芸妓だろう。随分素っ気ないんだな。ところでここにはビールはあるか。酒はもう飲みきれない。」

 女は黙って立ち上がると部屋を出て行った。そしてしばらくするとお盆にビールを載せて戻って来た。

「この時代、ビールは貴重品だからあまり沢山は困るって、帳場でそう言っていました。」 

「その貴重なビールが味わえるわけだ。ありがたいな。」

 コップに注がれたビールを口に含むと生温い苦みが広がった。それでも日本酒の粘りつくような口当たりよりはずっとましな気がした。

「さっきの人が言ってたこと、本当ですか。この戦争は間違いだって。する必要はなかった戦争だって。本当なんですか。」

 口に含んだビールがよけい苦くなった。

「必要か必要でないかを決めるのは政府のやることだ。俺達は軍人だ。戦えと命令されればそれに従って戦うだけだ。」

「私の弟はフィリピンで戦死しました。弟は無駄に死んだのですか。しなくてもいい戦争で死んだのですか。」

「君の弟は軍人なのか。」

「あなたと同じ海軍でした。兵学校を出て山城という戦艦に乗り組んでいました。最期に帰ってきた時、『出撃だ。これでやっと国のために働ける。姉さん、海軍に入れてもらって本当にありがとう。』と言って。」

 連合艦隊がレイテ沖で壊滅的な打撃を受け、何等得るものがなかったことは噂で聞いていた。撃沈された艦船の中には不沈艦と言われた戦艦武蔵や歴戦の空母瑞鶴、快速重巡洋艦、駆逐艦群、小桜の弟が乗り組んでいた戦艦山城など多くの精鋭艦が含まれていて、その結果連合艦隊はもう二度と艦隊としての作戦行動が出来ないまでに消耗してしまっていた。そんな戦いで命を落としたことに何かの意味があるのかどうか私には分からなかった。

「艦隊は米空母群に決戦を挑んで、その多くを撃沈したと聞いている。君の弟さんもきっと立派に任務を果たしたのだと思う。」

 私は小桜の気持ちを思ってその場を取り繕うとした。

「そうして日本は勝った、勝ったと誰もが言っていますけど、それならどうして皆死んでしまって誰も帰って来ないのですか。戦争に勝ったのなら皆帰って来られるでしょう。本当に人が言うように日本はこの戦争に勝っているのですか。」

 小桜のこの一言で私は観念してしまった。真実は言えなくともある程度の事実は話すべきだと思った。

「勝っているとは言えないと思う。俺は俄か雇いの臨時士官だから詳しいことは分からないが、米英の国力は日本とは較べものにならないくらい巨大だ。それを日本だけで受け止めるのには無理がある。相当に苦戦しているようだ。君の弟さんもそんな戦いの中で戦死されたのだろう。今、敵は徐々にこの日本に迫ってきている。もしも敵が日本に上陸したら大勢の非戦闘員、つまり民間人が犠牲になってしまう。それを食い止めるために君の弟さんたちは必死で戦ったんだ。それが無駄なことだったのかどうか、それは何とも言えない。」

 小桜はそっと涙を拭って笑顔を見せた。

「そう言ってもらった方が難しい理屈を言われるよりも分かりがいいです。弟のことも少しは救われたような気がします。」

 小桜はビールを取って差し出した。私はそれをコップで受けて無言で口に運んで飲み込んだ。炭酸の泡が弾けるたびにその一つ一つが心に刺さる針のようだった。

 私は不器用な慰めはやめて黙ってビールを飲むことにした。報道や言論の操作も今の日本のように行き過ぎれば返って不信を招くことを思い知った。

『勝っているのなら出征した兵士達は元気な姿で帰ってくるはずだ。』

 それは帰りを待ち侘びている者からすれば身につまされる真実だった。その真実の前では何の裏付けのない『勝った、勝った。』の大合唱は色褪せた使い古しの看板のように真実味がなかった。

「ねえ、あなたもすぐに戦地に出て行くのでしょう。」

 小桜が独り言のように言った。

『戦地に行くも行かないももうすぐにこの日本自体が戦地だよ。』

 そう言いたかったがすんでのところで言葉を飲み込んだ。

「そうだな。今は飛行機と飛行機の戦争だから海軍も陸軍も搭乗員は喉から手が出るほど欲しいはずだ。僕みたいな新米でもすぐに何処か激戦地に出されることになるだろう。同じ仲間にも高瀬のようにフィリピンで何度も死線を潜ってきた者もいるくらいだから。」

 フィリピンという言葉に小桜が一瞬体を強張らせた。

「また思い出させてしまったな。悪かった。」

「いいんです。よく分かりました。弟は私達のために戦ってくれたのだと言うことが。私達のために戦ってくれている人達に感謝しています。でももう誰にも死んで欲しくはないんです。」

「日本は、戦争をしているのだから。」

「もう沢山です。負けてもいいから戦争なんかやめればいいんです。貧しくてもいいから静かに平和に暮らせばいいんです。」

 小桜はそう言うとまた涙を流した。国家の主権や独立、尊厳と個人の幸福、そのあまりの隔たりに、一言死ねと言われればすぐにでも死ななければならない我が身を忘れて、ただ立ちすくむだけで私には言葉もなかった。

「抱いてください。こんなおばさんじゃ、嫌でしょうけど、商売じゃなくていいんです。私、お客を取ったことはありません。私を抱いていてください。辛いんです。」

 小桜のその言葉に私は抗しようもなく、気がついた時には小桜を抱いて寝具の中にいた。小桜は自分の立場もすっかり忘れたようにその大柄な体を私に預けて安心しきった様子で小さな寝息を立てていた。そんな小桜を抱きながら私は今日ここで起こったことをあれこれと考えていた。国家の大儀名分はとにかく、『死んで来い』の一言で死ななければならない我々の方が、個人の立場からすれば少なくとも小桜よりもずっと悲劇には違いない。そんなこともお構い無しにこうして他人に自分を預けて一時の安眠を貪る女という生き物が何とも不可解に思えて仕方がなかった。