翌朝携帯の着信音で安眠を破られた。携帯電話は確かに便利な道具には違いないが、何時でも何処でも二十四時間休みなくプライバシーをかき乱す。まあ普通の人間関係でかかってくる分には良いのだろうが、今のようにかけてくる相手はこっちが全く知らない相手ばかりという状況では着信音が鳴るたびに身が縮むどころの騒ぎではない。

 最初のうちは電話が鳴る度に出ようか出まいか迷ったが、今は冷酷に留守電にしてしまう。後から誰なのか確認してからでないと危なくて迂闊になんか電話も取れない。相手は当然僕を、じゃなくて佐山芳恵を知っていてどんな用事かは別にしてとにかく用事があるからかけて来るんだろうけどこっちは相手も知らなければ進んで聞きたいような用事もない。何でお前なんかの電話を受けなくてはいけないんだと言いたくなるような電話ばかりだ。

 どうせ馬の骨氏だろうと携帯をとると『実家』と表示されていた。思わず電話に出てしまったのが新しいトラブルの始まりだった。いきなり年配の女性の声で「芳恵、どうしたの。ちっとも連絡もよこさないで。」などと非難されてしまった。

 『あなたの娘の芳恵さんはここに体だけは残っているけど中身が何処かに行ってしまって残った体を支配しているのはこれまた体が何処かに行ってしまって自分が誰なのかも知れない中年の男性なんですよ。』とでも言ってやろうかと思ったが、血相変えて北海道から飛んで来られても困るので止めておいた。

「来月のお父さんの法事には帰ってくるんでしょうね。お願いだから忙しいとか変なことを言い出さないでね。親族もみんな集まってくれると言っているんだから。あなた自身のこともあるんだからね、いいわね。ちゃんとまとまった休暇を取ってよ。」

「え、私のこと。」

 母親という初老の女性の声に僕は思わず叫び声を上げた。何だかとても嫌な予感がした。

「この間写真と経歴を送っておいたでしょう。先方様はどうしてもととても乗り気なのよ。先のことはあなたのことだからどうしても無理にとは言わないけれど先方も悪い人ではなさそうだし、あなたがその気になってくれればと思わないでもないのよ。それはあなたも一度失敗しているんだから躊躇う気持ちはあると思うけど、ねえ先のことを考えると・・・・。」

 そこから先は初老の女性の話が延々と続いた。それを上の空で聞き流しながら僕は考えた。法事といえば親族が集まる。親族といえば当然お互いにそれなりに面識のある者同士の集まりになる。そこに何の予備知識も持たない相手の顔すら知らない三十過ぎの出戻り女の皮をかぶった赤の他人の中年男が飛び込んで行くのだ。これは考えようによっては馬の骨氏襲来以上の危機と言っても過言ではなかった。

「あの、私、ちょっと今仕事が忙しくて・・・。」

 初老の女性の言葉に割り込んでちょっと仄めかしてみたところ、案の定バルカン機関砲のような何者をもなぎ倒さずにはおかないと言うごとき疾風怒涛の集中射撃が返って来た。

「何も出ないなんて言ってないでしょう。ただ長い休みと言っても難しいかも知れないというつもりだっただけじゃない。ねえ、ところで何時だったっけ、お父さんの法事。」

 僕は何も承知していないから正直にそれを言っただけなのにこれにまた嵐のような機銃掃射が来た。

「あなたのことをあんなに心配してくれていたお父さんの法事なのにあなたって人は本当に・・・。」

『お母さん、あなたの旦那さんが可愛がっていたのは佐山芳恵というあなたの長女でしょう。僕は訳あって自分が何処の誰なのか分からないけどこれだけは間違いなく言える。僕があなたのご主人に手塩にかけて大事にしてもらった覚えは欠片もないんですよ。』

 そう言ってやろうかと思うほど母親の語気は激しかった。それも分からないでもないけど。
初老の女性は携帯の電源が消耗しつくしてしまうほど長い時間しゃべり続けた後で「利彦さんが話があるというからちょっと利彦さんに代わるから。」と言ってようやく退場した。

「何時ものことだけどお袋と姉さんが話し出すと長くて長くて。待つのも疲れるよ。飛行機の便を教えてくれれば空港まで迎えに行くから決まったら連絡してくれ。じゃあその時に。」

 これで僕はやっと電話攻勢から解放されたが明るく楽しくあるべき週末はまたしても重く暗雲の垂れ込めたような雰囲気になってしまった。考えてみれば人間いくら自由だなどと言ってみてもずい分様々な人間関係に雁字搦めにされているものだなとつくづく思い知らされた。もしも僕の体に佐山芳恵が住みついていたら、これほどではないにしてもやはり僕が引きずっている人間関係や女性関係に振り回されて苦労しているのだろう。

 僕のように半ば開き直って生きている男でも泣きたくなるようなことが多いのだから気の弱い者なら首でも括りたくなってしまうだろう。そんなわけで僕は最近中年男性の自殺記事に敏感になってしまった。殊更人間関係に苦しんでなどという書き出しを見るとさぞ辛かったのだろうとその痛ましさにほろりとしてしまうほどだった。

 僕はバッグから手帳を引っ張り出してめくって見るとなるほど翌月一週間の予定で休暇が入っていた。休暇は大歓迎だが一週間も赤の他人親戚包囲網の中で苦闘を続けるのは真っ平御免蒙りたいので法事をはさんで休暇は前後一日づつ三日、午後遅い便で現地入りして法事が終わった翌日は出来るだけ早い便で離脱する作戦を立てようと思った。

 軽い朝食を済ませて親戚と言う連中の資料でも揃えて来るべき決戦に備えようと思ったが、驚いたことに何も見つからなかった。考えてみれば身近な友達などは写真や住所録もあるだろうが、よほどのことがない限り家取りの嫡子でも親族の名簿を備えている者なんぞあるはずもなかった。せめて新たに出現した物好き殿のことでも少しくらいの予備知識をと思ったが、さらに困ったことはその僕だか佐山芳恵だか訳の分からなくなってしまった女性の姿をした生き物を気に入ったと言う奇特な男の写真も履歴も何も見当たらなかったことだった。

 次から次へ押し寄せてくる難題にいい加減うんざりしてコーヒーを飲みながらタバコをもくもくふかすとそのまま寝てしまった。翌朝は昼近くに起き出して軽い朝食を済ませると買い物に出た。以前から週末と週中に食糧を買い出しに行くのが日課だったが、そういう日課は体が女になっても変わらなかった。違うのは買い出しに車で行っていたのが、歩いて行くようになったことくらいだった。

 佐山芳恵は免許証を持っているようだから一応合法的に車を運転する資格はあるようだが、どうも車を所有しているようには思えなかったし、車に興味をお持ちのようにも思えなかった。わけの分からないファッション雑誌やらブランド物の雑誌などは邪魔だからみんな資源ゴミに出してしまったが、単純に、このような状態を単純にという言葉で表現するのが適切であるのかどうかは多いに疑問があるが、佐山芳恵と僕が入れ替わっているのなら僕が集めた雑誌も同じような運命に遭っているのだろう。

 そんなことを考えているうちに何だか無性に車に乗りたくなって近くにあったレンタカーの営業所に飛び込んだ。そこで小型のツーシーターを借りて街に乗り出した。そうしてしばらく近所を走り回ったが、久しぶりのなかなか良い感触に遠出がしたくなって自宅に戻るとネットでホテルを検索して予約を済ませて身の回りのものと必要な仕事の資料だけをまとめて車に乗り込んだ。そしてそのまま高速へと入って行った。行く先は何処でもよかったのだが、何となく海を選んでしまったので御殿場インターで降りると箱根を抜けて伊豆スカイラインへと車を走らせた。ホテルには夕食の用意がないというので途中スーパーに寄って適当に見繕って食糧を買い込んでおいた。