ホテルを出て駅に向かって歩いていると馬の骨氏から電話があった。「どうだった。」と聞くので「参考になった。」と答えると馬の骨氏は「そうか、珍しいな、あいつが何もちょっかいを出さないのは。」と言った。

「参考になったのは仕事ばかりじゃないかもしれないわよ。」

 僕が酔いも手伝って馬の骨氏をちょっとからかってやったら急に不機嫌な声になって私の所在や何かをしつこく聞いて「迎えに行く。」などと言い出したので藪蛇と反省して「自宅の近く。」とか適当にあしらうと早々に電話を切ってしまった。そんなに心配なら自分から信用のできない男のところになんかやらなければいい。佐山芳恵も何が良くて馬の骨氏なんぞとお付き合いをして肌を合わせていたのか聞けるものなら聞いてみたい気がした。

 駅も近くなってやれやれと思っているところに後ろからいきなり「芳恵」と声をかけられて心臓が凍りついた。芳恵と呼ばれても決して呼んだ方がそうだと思っている芳恵ではないのだから気安く呼びかけるなと心の中で一喝しておいてから振り返った。予想したとおりそこには見たこともない三十代の女性が立っていた。

「芳恵、芳恵じゃない。久しぶりねえ。元気でいるの。ご主人と別れたと聞いたけどどうしたの。子供さんはいなかったのよねえ。独りで生きてくって憧れちゃうけど大変でしょうね。仕事はどう。忙しいの。どんなことしてるの。芳恵は英語得意だったわよね。英語の会社に勤めてるって聞いたけどどんなことしてるの。」

 女は矢継ぎ早に質問を投げかけたが何とも答えるすべがなかった。ほんのわずかな時間で一体いくつの質問をしたんだ。それじゃあ親しい仲でも何から答えていいのか分からなくなってしまうだろう。そんなに矢継ぎ早に質問されて、『うん、元気よ。旦那とはね、いいなと思ったけどどこか食い違いがあったのよね。縁がなかったのかな。子供がいなかったから気分的には楽だったけどね。仕事、結構大変よ。あれこれ制約されるし。英語もねえ、趣味でやっている時は楽しかったけど仕事になるとねえ。楽しいなんて言っていられないわ。

 今は英会話のコンテンツの開発を任されているけど。』なんて調子で矢継ぎ早に答えたら言われた方だって何が何だか分からないだろう。まあこの手の会話はその先の話題を探すために相手の手の内を探っているようなものなのだろうから、突破口を見つければまたそこから質問が矢のように降ってくるのかも知れない。

「あらぁ、久しぶりじゃない。でもごめんね。ちょっと仕事で急ぐのよ。また今度連絡するわ。」

 結局、僕がこの芳恵とは親しそうな、しかし僕にとっては全くの見ず知らずの女に答えたのはそれだけであっけに取られたような顔をしている女を残して小走りに駅に向かって走り出した。しかし午後十時を過ぎて一応独身の女が何の仕事だろうと自分で訝りながら駅の改札に走り込んだ。
電車の中で一息ついてから考えた。

 こんなことが僕だけに起きているのか他にもこの苦労を共有する者が世の中にいるのかどうかは知らないがこんな目に遭った時のために各人がこれまで関係のあった人物の写真と経歴や特徴を記載した人生相関図でも作成しておくべきだと思った。そういう資料でもあれば目が覚めて全く覚えのない体に入れ替わっていたとしてもある程度落ち着いて対応できるのではないかなどと考えたが、そんなものくらいではあの衝撃は到底収まらないかも知れない。

 この電車の中にも落ち着いた顔をして本当は人にも言えずに苦しんでいる人がいるかもしれないなどと勝手に思いながら乗客の顔を眺めていた。最近は自分から望んでお借りしたものではないが、この借り物の体の扱いにも快適とはいかないまでも何とか慣れつつあるのに自分の知らない大家様の交友関係相関図というまた新たな問題を抱え込んでしまった。

 それにしても独身女の体に仮住まいさせられたのは不幸中の幸いだった。これが所帯持ちで亭主や子供、舅、姑までいるなんて状態だったらそれこそすべてを打ち明けて病院にでも入院するかどこかに逃走した方がどれほど幸せかしれないだろう。時々突然蒸発していなくなってしまう人の中にはそういう不幸な人がいるのかもしれない。

 家に戻って着替えを済ますとからから男が言ったことを考えてみた。語彙を増やすと言うのは語学の基礎の基礎だった。でもそれが何よりも難しく辛いことだった。どうしたらいいのかあれこれ思いを巡らせながらシャワーを使った。会社でよく一人暮らしの女性たちが部屋で裸のままでいるのは気持ちがいいと話しているが、僕には裸でいることは男の体のころから何とも落ち着かない居心地の悪いことだった。そして今もそれは変わらなかった。だから今でも部屋にいる時はカーゴパンツやトレーナー、Tシャツなどを身に着けていた。

 どうして女が裸でいると心地が良いのかよくは理解出来なかったが、どうもその理由は女の服装にあるのではないかと思いついた。男の場合通常背広やネクタイで外側はしっかりと固めているが、下着は単純であまり体を拘束するものがない。それに引き換え女は外見こそあっさりとしたものを身に着けているが、見えないところでぎりぎりと体を締め付けて形を整えようとする拘束型の下着を幾重にも重ねて身に着けているから裸でいることに開放感を感じるのかも知れない。

 僕もそうした下着に耐え切れずにスポーツブラとかその類を購入して着用するようになった。体型が崩れるとか言われたってかまうものか。あんなものでぎりぎり締め付けられてたまるものか。そう言えば最近よく服装や化粧が変わったと言われるが、そりゃそうだろう。人間が変わってしまったんだから。しかも女から男へと劇的に。

 そんなことを考えながらシャワーから上がって下着を着けようとした時に鏡が目に入った。これまでそんな気持ちになったことはなかったのだが、あるいは余裕がなかったのかもしれないが、酒のせいもあったのかちょっと悪戯心を起こして鏡の前に立つと片足をぱっと上げてみた。そうすると当然今は自分が使っている佐山芳恵という女の体の一部が鏡に映った。

 今までそんなはしたないことはしたことがなかった。それはほんの思いつきの悪戯だったが、その鏡に映った体の一部を見て胸がどきどきしてしまった。まあ男なんだからと思ってみても今は自分の使っている体の一部を見てどぎまぎするそのあまりのばかばかしさに我ながらあきれ返ってそそくさと衣類を身に着けた。