今僕に近づいてくる者は良いも悪いもあったものではない。全部厄介者だった。馬の骨氏が出て行ってから僕はドアにチェーンを掛けた。そうして合鍵を持っていても入って来られないようにしておいてから居間に戻って座り込むと何だか急に煙草が吸いたくなった。さっきバッグを物色した時に煙草が入っていたことを思い出してそれを取り出すと火を点けた。

 何時も自分の部屋で煙草を吸う時は窓を開けて吸うのだが今日はちょっと事情が違う。そのまま煙が部屋の中に充満していくのも気にしないで煙草をふかした。二本目を吸い終わった後で時計に目をやるともう夕方近かった。今日は朝からほとんど何も食べていなかったので急に空腹を感じ始めた。

「もうこんな時間だったのか。腹が減っては何も出来ない。何か食料を買ってくるか。」

 独り言のように言うと僕は立ち上がった。しかし買い物をするには外に出なくてはいけない。そのために化粧したり衣装を選ぶのが厄介だった。第一化粧など一部の特別な嗜好を持つ男性達を除いて普通の男達には無縁の存在だった。迂闊にルージュなど引こうものなら口裂け女に成り下がってしまう危険もあったし、下手にファウンデーションなど塗りたくれば「おてもやん」のような極端に目立った存在にもなり兼ねなかった。

 そして外出するための衣装も、極端な話、男ならシャツと短パンという軽装でもかまわなかったが、女性になるとそういうわけにもいかないだろうと思った。軽装で外出すれば世間の男性は興味をそそられて喜ぶかもしれないが、困ることも多く出て来そうだった。何より胸や尻を無闇に突き出して『私が歩くと私のお尻の筋肉はこんな風に動くのよ。』と後ろの人たちに見せびらかすような格好をした女達が目の前に出てくればそれなりに観察はさせてもらっていたものの、そのような姿態を見せびらかすのは品性に欠ける行為だと主張し続けてきた手前もあって世の男供に批評を許すような真似はしたくはなかった。

 佐山芳恵という女は大柄なだけあって体のそれぞれの部分もそれなりに大きかったので慎重に衣装を選ぼうと思ったが、本人自身も承知していたのかさらりと着流すような類の衣装がほとんどで余り体のラインを強調するようなものはなかった。しかし男の中でも大してしゃれっ気のなかった僕にはそうした衣類さえどうして着たらよいのかも分からないようなものが多く、結局ほとんど男物のワイシャツに近いブラウスと長めのスカートを引っ張り出して身に着けようとしたが、あることに気が付いて思い止まった。

 それは男には思いも付かない女性用下着の種類の多様さだった。どんな上着にどんな下着を着ければいいのか皆目見当もつかなかったし、今から研究に励んだところでそれが身につく頃には餓死という事態を招きかねないので上にはブラ、そしてスリップと言うのかどうか知らないが、そう言った類であろうと思われる下着を身に纏った。
 
 下半身はなお更問題だったが、パンストを履こうとして爪を引っ掛けて二枚破ったところで僕もさすがにこの手強い衣類を身につけることを諦めた。

『スカートの幅に余裕があるから尻の肉が多少揺れても目立たないだろう。それに今の状況を考慮すれば外出先でスカートをめくり上げることはあり得ないだろう。』

 それがパンストという厄介な代物を扱いかねて苦渋の末に至った僕の結論だった。次に頭を悩ませたのは履物と持ち物だった。これにも男には理解し難い法則が存在するものと推測されたが、僕なりに検討した結果、履物については歩き易くて転倒し難いという二つの条件に適うもの、持ち物についてはあくまでも入れ物という実用性一点を条件に選んで出かけることにした。
 
 最後にもう一つ佐山芳恵の所持している現金を使うことについても僕なりに悩んだが、僕自身の生命を維持すると共に佐山芳恵自身の体も維持するためと結論して納得した。
そうして万全の体制で外出することになったが、この場合の外出という行為は幼児の公園デビューにも似た不安一杯なものだった。しかし僕は人生初めての女性としての外出を『沈黙と微笑み』を武器に大過なく乗り切って無事帰宅を果たした。

 帰宅して買い込んで来たパンやハム、ソーセージの類あるいは果物を適当に腹に収めて空腹が満たされた僕にとって次の難関は身を清めること、つまり入浴だった。青天の霹靂のように女性の体を手に入れた僕にとってその体は借り物でありまた僕自身のものでもあった。そんな大切な体の手入れを怠って白鮮菌の蹂躙に任せるのは借主としての責任も果たせず僕自身としても大いに困惑すると考えられるところであったことから当然シャワーなどで身を清めることにした。

 しかし嘗て戯言として知人達の間で流行った『女として生きることは願い下げだが、一度だけ女になって女のセックスを体験してみたい。』という浅はかな願望はそういうことが『あり得ない』ということを条件としてのみ成り立つ戯言であることをはっきりと断言しておきたい。
 
 僕は恐る恐る着ている物を脱いで裸になると風呂に入った。居間まで冬場以外はほとんどシャワーで済ませていたことからバスタブには湯を張らずにシャワーを使って体を洗い始めたが何のことはなく全部洗い終わってしまった。厄介だったのは心配していた体の中央部下方に位置する女性独特の器官ではなくどう考えても男の三倍以上もある髪の毛だった。

 考えてみればいちいち体を洗ったくらいで感じていたらすべての女は外に出て風に当たっただけでも仰け反ってしまうだろうし、それではまともなことは何も出来ずにそれだけで疲れ果ててしまうだろう。女という生物が風にも身を震わせるようなその手の感覚に敏感な生物というのは、ある意味で男の直線的な妄想かあるいはそうであって欲しいという勝手な願望だということは分かってはいたつもりだった。

 シャワーを使い終わって何より僕を悩ませたのはドライヤーをかけたら火事で焼け出されたお岩様のようになってしまった髪の毛だった。絡んでブラシは通らないし、纏まらないし、ほどほど閉口してしまった。結局スタイリングウォーターなどを吹き付けて適当に誤魔化してしまったが、こんなものを後生大事にはやしている女という生き物はずい分偉いものだと妙に感心してしまった。

 その後肌の手入れなどをするのだろうと思い、それも借主の責任かと兄弟の前に座ったがシベリアのタイガのように林立する化粧品を目の前に僕はなす術もなく立ち竦んでしまった。もっとも座っていたのだから立ち竦んだというのは正確な表現ではないかもしれない。
 
 とにかくどんな化粧品をどう使うかということについて何の知識も持たない僕にはどうしようもなかった。その時僕の頭にある考えが浮かんだ。昼間、馬の骨の居座りに疲れてぼんやりと窓の外を眺めていた時突然体が勝手に動き始めて自分の意識しない行動を始めたのは佐山芳恵の潜在意識が体を動かしたのではないかという仮定だった。

 もしもそうならこのまま佐山芳恵の体を制御することを放棄してしまえば佐山芳恵の潜在意識が勝手に体を動かしてお肌の手入れを始めるはずだった。僕は出来るだけ思考を白紙に改めようと努めたが、何も考えないと言うことがどれだけ難しいことかを思い知らされただけで僕の都合のいい試みは成功しなかった。

 結局僕は乳液あるいは多分そうだろうと思う液体を薄く顔に塗っただけで勘弁してもらうことにした。一つだけ思いついたのは明日の朝、髪の毛が反乱を起こして鎮圧に多大の労力を要するのを避けるために髪の元をゴムで縛って休むことだった。