そうしていとも簡単に重大な問題に結論を導き出したとたんに携帯電話が鳴った。僕の携帯電話がここにあるはずもなかったから、これは間違いなく佐山芳恵にかかってきた電話に違いなかった。
背筋が縮み上がるように体を竦めて電話の置かれているテーブルを見つめた。恐る恐る電話の着信表示を見ると、やはり今の僕にとって最強最悪の敵と化したこの体の持ち主の恋人からだった。
『来たか。』
僕は一言呟いた。そして瞬時にして僕が達した極めて賢明な対応策は『黙殺』だった。十数回も僕の神経を掻き毟った電話は取合えず鳴り止んだ。しかしこれで済んだ訳ではないのは百も承知だった。大体自分のことを考えてみればいい。付き合っている女が一度くらい電話に出ないからといってそれですべてを諦めるだろうか。
果たして五分もしないうちに二度目の電話が鳴り出した。今度も取るべき方法はただ一つそれは黙殺だった。
そして三度目、その時僕が抱いた感情は逆恨みに近いかもしれないが、正直少しばかり腹が立った。黙殺は通用しないことを悟ると僕は意を決して電話を取った。
「はい、」
「どうしたんだ。もう近くまで来ているんだ。」
想像していたよりも落ち着いた印象の男の声が聞こえた。
「今日はお前のところに泊まる日だろう。何か買って行く物はあるのか。」
「ねえ、具合が悪いのよ。今日は帰って。」
初めて聞いた自分の、いや、僕が仮住まいしている体の持ち主の声に興味を覚えながら出来るだけ近づけないようにと弱々しい声を出してみた。でもこれは大きな誤りだったことにすぐに気が付いた。目と鼻の先まで来ている男に具合が悪いから帰れと言って素直に帰るはずもなかったし、もしもそんなに主体性のない男ならそんな男に女など寄り付くはずもなかった。
「大丈夫なのか。とにかくすぐに行くから大人しくしていろよ。」
男はそれだけ言うと電話を切ってしまった。
『しまった。我過てり。』
僕は臍を噛んだが手遅れだった。すぐに入り口のドアの鍵を回す音がして男が入って来た。ちょっとややこしい言い方になるかもしれないが、その男は昨日までの僕と同じか、少し若いくらいで男の立場で見ればそれほど悪い印象はなかった。そして僕の顔を見るなり驚いたような表情で至極当たり前のことを言った。
「どうしたんだ、ひどい顔だな。本当に具合が悪そうだな。」
「だからそう言ったでしょう。」
僕はこれ以上ないというくらいひどく不機嫌な調子で言った。しかし心の中ではそれに続けて『お前な、昨日まで四十数年、男として生きてきたのが突然目が覚めたら女の体に入れ替わっていて、しかもそれだけでも世の中がひっくり返るくらい気が動転している時に『僕はあなたの恋人でございます。』なんて何所の馬の骨とも知れない中年男が訪ねて来て、もっとご丁寧なことに『今晩ここに泊まるよ、嬉しいだろう。』なんて恩着せがましく宣言された日にはお前の恋人だったこの体の持ち主はそんな時お前をどう迎えたか知らないが『会いたかったわ。』なんてドラマのように満面の笑顔で迎えられるかどうか自分の身になって考えてみろ。』と心の中で毒づいてやった。
しかしそんな僕の心の叫びなど相手には分かろうはずもなく男は僕に近づいて来て左腕を僕の、いや、僕がその意思にかかわらず、一時借用せざるを得なくなった佐山芳恵という女の肩に回し、右手で僕の、いや、僕のではなく僕が現在占有している佐山芳恵の額に触れようとした。
「何するのよ、止めてよ。」
僕は至極当然のように男の腕を払い除けるとこれもまた至極当然のことを当然のように強い口調で言った。しかし不幸なことは相手がそれを至極当然のこととは取らなかったことだった。男は払い除けられた手を引っ込めて一歩後に下がって穴の開くほど僕の顔、いや、向こうにしてみれば何所の馬の骨とも知れない男に乗っ取られた恋人の顔を眺めていた。
「どうしたんだ。そんなに具合が悪いのか。今までそんなことなかったじゃないか。」
「だから何度もそう言ったでしょう。具合が悪いから独りにしてって。」
その言葉を何度言ったか皆目見当もつかなかったが、まあこの際そういう細かいことはいいだろう。
男はまたしばらくの間、全く別人に、しかもご丁寧に性別まで入れ替わってしまっている恋人の顔を見つめていたが、この程度のことで引き下がると思っていた僕の見通しの方がずっと甘かったことを思い知らされた。
「分かった。具合が悪いのなら俺にかまわずに休めよ。俺はこっちの部屋にいてやるから。心配しないでゆっくり休んだらいい。後で何か喉を通りやすいものでも作ってやろう。」
普通なら涙が出るほど優しい言葉だった。しかし今の僕の状況では男のそんな優しさは迷惑千番以外の何物でもなかった。
『そのお前がいることが僕にとっては最大の問題なんだよ。分からないのか。』
心の中で幾ら叫んでみても相手に伝わるはずもなく、そうかと言ってこのままここに止め置けば僕の存在自体にとって極めて重大な脅威になるであろうこの男を何とかしてこの部屋から追い出すことは僕にとって火急の重大事だった。
仮にここでこの男を追い出してしまって行く先佐山芳恵が恋人を失った悲しみに打ちひしがれようとその痛みは今女の体で過ごさなければならない僕がこの馬の骨と一夜を共にした際に受けるであろう肉体的、そしてそれにも増して精神的打撃を超えるものとは考え難いとの結論に極めて容易に達したことから、万難を排してもこの馬の骨を追い出すことに全力を傾注することとして意を決した。
「ねえ、今日は帰ってよ。今日は誰とも一緒にいたくないの。帰ってよ。」
さすがにこの言葉で馬の骨も笑ったままでは済まされない感情を抱き始めたようだった。
「そんなに具合が悪いのなら、どうして電話くらいくれなかったんだ。俺にも予定があるのに。」
『そのお前の存在を僕が認識した時にはお前はもうすぐ目の前まで来ていたんだよ。』
僕は心の中でそう言いながら更に決定的な言葉を考えていた。
「あなただってそういうことはあるでしょう。私だって好きでこうしている訳ではないわ。」
これはまさしくそのとおりだった。僕は何も好き好んで女の体に住み着いてお前の相手をしているわけではないと言ってやりたかったが、そんなことをするともっとややこしいことになりそうだったので止めておいた。
さすがに馬の骨にも木で鼻を括ったような僕の態度に感情の昂ぶりが見えてきたので、ここでもう一押しと止めの一撃を口に出した。
「あなたが出て行かないのなら私が出て行くわ。」
これはもう事実上の宣戦布告であることはよく理解していた。馬の骨氏はかねて約束してあったとおりに時間を空けてここにやって来て穏やかな一夜を過ごすつもりが理由も分からずに怒鳴り散らされたのだから怒って当たり前だった。しかしこれは自存自衛のため真に止むを得ざるに出でた行為であることを理解して欲しかった。
取り敢えず僕はいきなり馬の骨氏に殴られたりしないように適当な距離を取ることを忘れなかった。しかし馬の骨氏はなかなか紳士のようでそんな心配は無用だった。一旦は不快な表情を見せたもののすぐに元の穏やかな顔に戻ってそのまま居間に座り込んで煙草をふかし始めた。
「どうしたんだ、そんなに苛立って。今までそんなことなかったじゃないか。」
馬の骨は出来るだけ感情を抑えた穏やかな声で言った。
「今の佐山芳恵とかいう女はな、今までとはまるっきり別人なんだよ。」
そう言いたいところをつま先で踏み止まって、まさかベッドの上に胡座をかいているわけにもいかなかったので、僕はベッドの縁に腰を下ろして黙って窓の外に視線を向けていた。そうしてなるべく不機嫌な顔を見せながら次の追い出しの手口を考えていた。馬の骨も時間が経てば自分の恋人が、いや、自分の恋人の姿をした僕が落ち着くと思ったのか、煙草を吸い終っても特に何をするでもなく居間に座っていた。
小一時間もそんな状態が続いて僕もいい加減飽きが来て気が抜けたように馬の骨から注意を逸らしてしまった。その時突然自分が立ち上がって動き出した。僕は、いや、佐山芳恵の体が勝手に動き出して台所に立つとコーヒーを入れ始めた。まるでその肩に乗って傍観している小鳥になったようなそんな感じだった。
一体僕なのか佐山芳恵という女なのか得体が知れなくなったその体はコーヒーの満たされたカップを居間に座っている馬の骨の前に差し出した。戸棚から取り出したマグカップもどうも男性用のような感じがしたので馬の骨専用だったのかもしれない。
急にしおらしくなった恋人に笑顔を向けた馬の骨はカップを受け取るとうまそうに一口コーヒーを飲み込んで煙草に火を点けた。どうも形勢が悪くなってきたようだった。このままでは居座られるどころか僕が間借りしているこの体自体が何をしでかすか分からなくなってきた。僕は意を決して佐山芳恵の体の支配権を取り戻そうとした。それでも馬の骨は急に友好的になった自分の恋人に満足している様子だったのでちょっと手を変えて下手に出る作戦を取った。
「さっきはごめんなさい。辛くて苛立っていたものだから。」
僕は馬の骨氏にちょっと頭を下げて見せた。体の支配権は何の異常もなく僕の手に戻っていた。
「どうしたんだ、何時もの芳恵らしくもない。そんなに辛かったのか。」
『そうよ、馬の骨のあなたがいることが耐えられないくらい辛いのよ。』
せっかく雪解けムードになってきた今そんな暴言はそれが正真正銘真実であってもぶち壊し以外の何物でもないので暴言は喉の奥にしまい込んで僕は哀れな女を装った。
「体が火照って頭がひどく痛いの。ずっと横になっていたんだけどどうしても良くならないの。でも、さっきは本当にごめんなさい。せっかく時間を作って来てくれたのに、あんな酷いことを言って。」
馬の骨氏は「おや。」という顔をして僕を見上げた。
「何とか時間を作っても週末はどっちかの家で一晩を過ごすことになっているじゃないか。」
僕は馬の骨氏に言われて肩が縮み上がった。
『そうか、この女、この馬の骨と週末婚を実践していたのか。やはり何も状況を把握しないで変なところに触れるものじゃない。』
僕はそうと知るととにかく具合が悪いの一点張りで押し通そうと心に決めた。
「それでも確かに具合が悪そうだ。医者には行ったのか。」
『四の五の言わずにコーヒーでも一気飲みして早く帰れよ。』
そう言ってやりたかったが『百戦百勝一忍に如かず。』の精神でか弱そうな笑顔を浮かべてやった。
「病気じゃなくてホルモンのバランスとかそう言った類のものだと思うわ。静かに横になっていれば治ると思うの。」
こうして言葉を選びながら話しているだけでも血圧が上がって自律神経失調症にでもなりそうなのにいい加減にしてくれと叫びたかった。
「ごめんなさい。」
僕はちょっと肩を落として俯いて見せた。
馬の骨氏はしばらく黙っていたが「そうか、分かった。」と言うとカップをテーブルに置いて立ち上がった。
「せっかくの週末を残念だけど今日は帰るよ。ただ、心配だから時々電話をしてくれよ。俺も電話をするから。」
「ごめんなさい。」
僕はもう一度謝って見せた。そして玄関先に馬の骨氏を見送る時もいきなり抱きつかれたりしないように適当な距離を保っておくことも忘れなかった。
「じゃあ無理するなよ。何かあったら電話をしてくれ。すぐに来るから。」
馬の骨氏はそう言い残して部屋を出て行った。馬の骨氏も男としては決して悪い部類に入る輩ではないとは思ったが今は話が違う。
背筋が縮み上がるように体を竦めて電話の置かれているテーブルを見つめた。恐る恐る電話の着信表示を見ると、やはり今の僕にとって最強最悪の敵と化したこの体の持ち主の恋人からだった。
『来たか。』
僕は一言呟いた。そして瞬時にして僕が達した極めて賢明な対応策は『黙殺』だった。十数回も僕の神経を掻き毟った電話は取合えず鳴り止んだ。しかしこれで済んだ訳ではないのは百も承知だった。大体自分のことを考えてみればいい。付き合っている女が一度くらい電話に出ないからといってそれですべてを諦めるだろうか。
果たして五分もしないうちに二度目の電話が鳴り出した。今度も取るべき方法はただ一つそれは黙殺だった。
そして三度目、その時僕が抱いた感情は逆恨みに近いかもしれないが、正直少しばかり腹が立った。黙殺は通用しないことを悟ると僕は意を決して電話を取った。
「はい、」
「どうしたんだ。もう近くまで来ているんだ。」
想像していたよりも落ち着いた印象の男の声が聞こえた。
「今日はお前のところに泊まる日だろう。何か買って行く物はあるのか。」
「ねえ、具合が悪いのよ。今日は帰って。」
初めて聞いた自分の、いや、僕が仮住まいしている体の持ち主の声に興味を覚えながら出来るだけ近づけないようにと弱々しい声を出してみた。でもこれは大きな誤りだったことにすぐに気が付いた。目と鼻の先まで来ている男に具合が悪いから帰れと言って素直に帰るはずもなかったし、もしもそんなに主体性のない男ならそんな男に女など寄り付くはずもなかった。
「大丈夫なのか。とにかくすぐに行くから大人しくしていろよ。」
男はそれだけ言うと電話を切ってしまった。
『しまった。我過てり。』
僕は臍を噛んだが手遅れだった。すぐに入り口のドアの鍵を回す音がして男が入って来た。ちょっとややこしい言い方になるかもしれないが、その男は昨日までの僕と同じか、少し若いくらいで男の立場で見ればそれほど悪い印象はなかった。そして僕の顔を見るなり驚いたような表情で至極当たり前のことを言った。
「どうしたんだ、ひどい顔だな。本当に具合が悪そうだな。」
「だからそう言ったでしょう。」
僕はこれ以上ないというくらいひどく不機嫌な調子で言った。しかし心の中ではそれに続けて『お前な、昨日まで四十数年、男として生きてきたのが突然目が覚めたら女の体に入れ替わっていて、しかもそれだけでも世の中がひっくり返るくらい気が動転している時に『僕はあなたの恋人でございます。』なんて何所の馬の骨とも知れない中年男が訪ねて来て、もっとご丁寧なことに『今晩ここに泊まるよ、嬉しいだろう。』なんて恩着せがましく宣言された日にはお前の恋人だったこの体の持ち主はそんな時お前をどう迎えたか知らないが『会いたかったわ。』なんてドラマのように満面の笑顔で迎えられるかどうか自分の身になって考えてみろ。』と心の中で毒づいてやった。
しかしそんな僕の心の叫びなど相手には分かろうはずもなく男は僕に近づいて来て左腕を僕の、いや、僕がその意思にかかわらず、一時借用せざるを得なくなった佐山芳恵という女の肩に回し、右手で僕の、いや、僕のではなく僕が現在占有している佐山芳恵の額に触れようとした。
「何するのよ、止めてよ。」
僕は至極当然のように男の腕を払い除けるとこれもまた至極当然のことを当然のように強い口調で言った。しかし不幸なことは相手がそれを至極当然のこととは取らなかったことだった。男は払い除けられた手を引っ込めて一歩後に下がって穴の開くほど僕の顔、いや、向こうにしてみれば何所の馬の骨とも知れない男に乗っ取られた恋人の顔を眺めていた。
「どうしたんだ。そんなに具合が悪いのか。今までそんなことなかったじゃないか。」
「だから何度もそう言ったでしょう。具合が悪いから独りにしてって。」
その言葉を何度言ったか皆目見当もつかなかったが、まあこの際そういう細かいことはいいだろう。
男はまたしばらくの間、全く別人に、しかもご丁寧に性別まで入れ替わってしまっている恋人の顔を見つめていたが、この程度のことで引き下がると思っていた僕の見通しの方がずっと甘かったことを思い知らされた。
「分かった。具合が悪いのなら俺にかまわずに休めよ。俺はこっちの部屋にいてやるから。心配しないでゆっくり休んだらいい。後で何か喉を通りやすいものでも作ってやろう。」
普通なら涙が出るほど優しい言葉だった。しかし今の僕の状況では男のそんな優しさは迷惑千番以外の何物でもなかった。
『そのお前がいることが僕にとっては最大の問題なんだよ。分からないのか。』
心の中で幾ら叫んでみても相手に伝わるはずもなく、そうかと言ってこのままここに止め置けば僕の存在自体にとって極めて重大な脅威になるであろうこの男を何とかしてこの部屋から追い出すことは僕にとって火急の重大事だった。
仮にここでこの男を追い出してしまって行く先佐山芳恵が恋人を失った悲しみに打ちひしがれようとその痛みは今女の体で過ごさなければならない僕がこの馬の骨と一夜を共にした際に受けるであろう肉体的、そしてそれにも増して精神的打撃を超えるものとは考え難いとの結論に極めて容易に達したことから、万難を排してもこの馬の骨を追い出すことに全力を傾注することとして意を決した。
「ねえ、今日は帰ってよ。今日は誰とも一緒にいたくないの。帰ってよ。」
さすがにこの言葉で馬の骨も笑ったままでは済まされない感情を抱き始めたようだった。
「そんなに具合が悪いのなら、どうして電話くらいくれなかったんだ。俺にも予定があるのに。」
『そのお前の存在を僕が認識した時にはお前はもうすぐ目の前まで来ていたんだよ。』
僕は心の中でそう言いながら更に決定的な言葉を考えていた。
「あなただってそういうことはあるでしょう。私だって好きでこうしている訳ではないわ。」
これはまさしくそのとおりだった。僕は何も好き好んで女の体に住み着いてお前の相手をしているわけではないと言ってやりたかったが、そんなことをするともっとややこしいことになりそうだったので止めておいた。
さすがに馬の骨にも木で鼻を括ったような僕の態度に感情の昂ぶりが見えてきたので、ここでもう一押しと止めの一撃を口に出した。
「あなたが出て行かないのなら私が出て行くわ。」
これはもう事実上の宣戦布告であることはよく理解していた。馬の骨氏はかねて約束してあったとおりに時間を空けてここにやって来て穏やかな一夜を過ごすつもりが理由も分からずに怒鳴り散らされたのだから怒って当たり前だった。しかしこれは自存自衛のため真に止むを得ざるに出でた行為であることを理解して欲しかった。
取り敢えず僕はいきなり馬の骨氏に殴られたりしないように適当な距離を取ることを忘れなかった。しかし馬の骨氏はなかなか紳士のようでそんな心配は無用だった。一旦は不快な表情を見せたもののすぐに元の穏やかな顔に戻ってそのまま居間に座り込んで煙草をふかし始めた。
「どうしたんだ、そんなに苛立って。今までそんなことなかったじゃないか。」
馬の骨は出来るだけ感情を抑えた穏やかな声で言った。
「今の佐山芳恵とかいう女はな、今までとはまるっきり別人なんだよ。」
そう言いたいところをつま先で踏み止まって、まさかベッドの上に胡座をかいているわけにもいかなかったので、僕はベッドの縁に腰を下ろして黙って窓の外に視線を向けていた。そうしてなるべく不機嫌な顔を見せながら次の追い出しの手口を考えていた。馬の骨も時間が経てば自分の恋人が、いや、自分の恋人の姿をした僕が落ち着くと思ったのか、煙草を吸い終っても特に何をするでもなく居間に座っていた。
小一時間もそんな状態が続いて僕もいい加減飽きが来て気が抜けたように馬の骨から注意を逸らしてしまった。その時突然自分が立ち上がって動き出した。僕は、いや、佐山芳恵の体が勝手に動き出して台所に立つとコーヒーを入れ始めた。まるでその肩に乗って傍観している小鳥になったようなそんな感じだった。
一体僕なのか佐山芳恵という女なのか得体が知れなくなったその体はコーヒーの満たされたカップを居間に座っている馬の骨の前に差し出した。戸棚から取り出したマグカップもどうも男性用のような感じがしたので馬の骨専用だったのかもしれない。
急にしおらしくなった恋人に笑顔を向けた馬の骨はカップを受け取るとうまそうに一口コーヒーを飲み込んで煙草に火を点けた。どうも形勢が悪くなってきたようだった。このままでは居座られるどころか僕が間借りしているこの体自体が何をしでかすか分からなくなってきた。僕は意を決して佐山芳恵の体の支配権を取り戻そうとした。それでも馬の骨は急に友好的になった自分の恋人に満足している様子だったのでちょっと手を変えて下手に出る作戦を取った。
「さっきはごめんなさい。辛くて苛立っていたものだから。」
僕は馬の骨氏にちょっと頭を下げて見せた。体の支配権は何の異常もなく僕の手に戻っていた。
「どうしたんだ、何時もの芳恵らしくもない。そんなに辛かったのか。」
『そうよ、馬の骨のあなたがいることが耐えられないくらい辛いのよ。』
せっかく雪解けムードになってきた今そんな暴言はそれが正真正銘真実であってもぶち壊し以外の何物でもないので暴言は喉の奥にしまい込んで僕は哀れな女を装った。
「体が火照って頭がひどく痛いの。ずっと横になっていたんだけどどうしても良くならないの。でも、さっきは本当にごめんなさい。せっかく時間を作って来てくれたのに、あんな酷いことを言って。」
馬の骨氏は「おや。」という顔をして僕を見上げた。
「何とか時間を作っても週末はどっちかの家で一晩を過ごすことになっているじゃないか。」
僕は馬の骨氏に言われて肩が縮み上がった。
『そうか、この女、この馬の骨と週末婚を実践していたのか。やはり何も状況を把握しないで変なところに触れるものじゃない。』
僕はそうと知るととにかく具合が悪いの一点張りで押し通そうと心に決めた。
「それでも確かに具合が悪そうだ。医者には行ったのか。」
『四の五の言わずにコーヒーでも一気飲みして早く帰れよ。』
そう言ってやりたかったが『百戦百勝一忍に如かず。』の精神でか弱そうな笑顔を浮かべてやった。
「病気じゃなくてホルモンのバランスとかそう言った類のものだと思うわ。静かに横になっていれば治ると思うの。」
こうして言葉を選びながら話しているだけでも血圧が上がって自律神経失調症にでもなりそうなのにいい加減にしてくれと叫びたかった。
「ごめんなさい。」
僕はちょっと肩を落として俯いて見せた。
馬の骨氏はしばらく黙っていたが「そうか、分かった。」と言うとカップをテーブルに置いて立ち上がった。
「せっかくの週末を残念だけど今日は帰るよ。ただ、心配だから時々電話をしてくれよ。俺も電話をするから。」
「ごめんなさい。」
僕はもう一度謝って見せた。そして玄関先に馬の骨氏を見送る時もいきなり抱きつかれたりしないように適当な距離を保っておくことも忘れなかった。
「じゃあ無理するなよ。何かあったら電話をしてくれ。すぐに来るから。」
馬の骨氏はそう言い残して部屋を出て行った。馬の骨氏も男としては決して悪い部類に入る輩ではないとは思ったが今は話が違う。