Memoir of old days at Mito City【水戸回顧録】 | 山と料理と猫、そしてクラカメな日々の備忘録

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山登りを通じて、日々の山行き、お料理、猫のポン王子、そしてクラシックカメラの記録を綴っていきます。

2020年1月3日、早朝、中央林間の自宅をクルマで出発した。

向かうはいまやだれも住んでいない茨城県水戸市の実家。

この日、大阪にいる弟も集まり、水戸の実家売却に向けての準備を進めた。

 

学生時代にお茶の水の中古レコード店で買い求めたジャズのLPアルバムや当時の書簡、小論文などを回収。

弟が使っていたタカハシ製の天体望遠鏡も、そのまま捨ててしまうのはもったいないので、回収することにした。

これは回収後、埼玉県の買い取り業者に引き取ってもらうつもりだ。

LPレコードは5枚ほど。その中にはロシアンジャズのアルバムもあったりした。

ゴルシュテインというアーティスト、いまやネットで調べても、何も引っかからない。

マイナーなアルバムだが、個人的には好きな一枚だった。

これもまた改めてお茶の水の中古レコードショップに持ち込もうと思う。

 

 

他には1985年ころに買い求めたと思われる「富士写真フイルム株式会社」(当時)の未使用フィルムも出てきた。

 

 

フジカラースーパーHR100。

1983年に新発売されたカラーフィルムだ。

当時からDX対応となっていた。

 

パトローネケースは今のそれとは形状が異なる。

 

 

こんな形状の蓋…確かにあった(笑)

 

そして当時のフィルムにはベロの先端にパンチ穴が打ってあったのだ。

これも今のフィルムには無い特徴だ。

 

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さて今回はニコンS2を持っていった。

これで水戸の街を記録したいと思ったからだ。

 

●カメラ:ニコンS2

●レンズ:ニッコール50㎜/f1.4(Sマウント)

●フィルム:コダックゴールド200

 

実家を売却すると、もはや水戸に行く理由の9割方が無くなってしまう。

せいぜい父の墓参りくらいだ。

そうしたわけで、かつて住んでいた街の風景を記録に残しておこうと思った。

 

 

まずは実家マンションからすぐ近くにある水戸地方気象台から。

これは堀口捨巳のモダニズム建築(いや、表現派的……ユーゲント・シュティール的かな?)。

 

 

このあたりの光景は昔を思い出せないくらいに変わっている。

 

 

水戸地方気象台は、小高い丘の上に建てられている。

広い窓、水平基調のクリーンなライン、直線的なフォルム。

 

 

実家の前にある旧電電公社、現NTT東日本の建物。

実家マンションに引っ越してきた当初は、この建物に電電公社のロゴが入っていた。

 

 

自宅マンションから眺めた五軒町方面。

水戸芸術館のタワーが聳えている。

 

 

室内整理の見通しが一通り立ったので、弟とランチにぶらっと市内散策をしてみた。

泉町の店頭。

ペトリ7、コニカⅢA(ヘキサノンF2付)、リコーオートハーフが並んでいた。

 

 

レトロが売りなのだろう。

 

 

大工町の印舗は廃業し、駐車場になっていた。その隣のウスイ毛糸店も廃業。

このあたりはずいぶんと変わってしまった。

 

 

大工町にある食堂「喜久水」。

 

 

明治大正生まれの昔から住んでいる方にとって、外食で洋食を召し上がるといえば、ここだったと思う。

いまでも営業しているのは、なんだか嬉しい。

 

 

小林履物店の隣は駐車場になってずいぶんと久しいが、良く眺めると、そこには特徴的なフォルムのファサードが見えていた。

この駐車場はその昔は「ヤオケン」というスーパー(…といっても、量り売りが主体の昔ながらの店構えだったが)があった。

年末にもなると、一匹丸ごとの新巻鮭が何匹も店頭に吊るされて、それは見事だった。

当時はレジ袋など無かったので、野菜や魚は新聞紙などに包まれて渡されていたと思う。

あとは紙袋だ。赤紫と緑色のラインの入った茶色の紙袋だったと思う。

肉は昔ながらの経木に包まれていた。

買い物かごは籐製のかごが多かったように思う。

余談だが、ウインナーといえば、ウイニーとか赤ウインナーなどの皮無しウインナーしかなかったし、ゼリーといえばハウス食品のゼリエースか、オブラートに包まれた硬いお菓子のゼリー(「ミックスゼリー」とか云ったと思う)しかなかった。

このスーパーのほかにも、近所の八百屋は御用聞きに定期的に訪問して来たし、たまにリアカーを引いた行商のおばあさんが野菜や魚を売りに来ていた。すべて量り売りだった。

 

 

麹町に住んでいる祖母が水戸に来ると決まって「水戸はふた昔遅れているね」と嘆息していた。

 

その昔はこの国道50号線の真ん中に、水浜線という路面電車が走っていたそうだ。

「………走っていたそうだ」というのはわたしが生まれたころにはすでに廃線となっていたからだ。

 

ただ、わたしが幼少当時の頃の国道50号線は、路面電車の跡が残っていて、路面の素材もアスファルトではなかったと記憶している。

生まれてすぐに父の転職の都合により、番町で氷屋を営んでいた母の姉の家に1年ほど預けられたわたしが、水戸での生活を記憶し始める歳は2歳の頃だった。ちょうど昭和47年頃からだったと思う。

なぜならば、当時テレビ番組で見ていた子供向け番組「ママと遊ぼうピンポンパン」に出ていたお姉さんは酒井さんではなくて、石毛さんだったのである。酒井さんにバトンタッチする頃には、わたしはこの番組を卒業していた。

 

 

ランチは鰻の老舗「ぬりや」にした。

室内は暗いので、開放で撮影してみた。

Sマウントのニッコール50㎜/f1.4、これはf8以上に絞るとカリッとシャープな切れ味なのだが、開放で撮影すると、途端に甘くなる。

ピントは真ん中の照明に合わせているが、それでもこんな感じになってしまう。

なんとも面白いレンズだ。

 

 

このレンズは寄れない。

なので、目いっぱい被写体から離れて撮影した。

実は冬の鰻こそ旬である。

夏の土用の日に鰻を食べるという習慣は、夏場に売れなくて困っているうなぎ屋が平賀源内にオファーして生まれたという、いわば販売促進活動のたまものに過ぎない。

 

 

このミニカーショップは最近できたのだろうか。

以前は無かった。

 

 

ビルの奥にある料理屋。

建物はかなり年季が入っている。

実はこの裏手にある天王町は今ではさびれた風俗街になっているが、その昔は芸妓を呼んでの料亭が軒を連ねていた。

「トランプ城」と呼ばれている一部の好事家に有名なソープランドの廃墟もここからすぐ近くにあったりする。

 

 

写真右端のひょろっとしたビルは、南町3丁目にある旧プリンス。

プリンスとは眼鏡店で、最上階には水戸市で唯一のプラネタリウムが存在した。

かつては天体愛好家のたまり場でもあった。

カプセル型の一面ガラス張りのエレベーターは、子供たちにとっては憧れの乗り物だった。

 

 

それも今は昔。廃墟となって久しい。

 

 

旧黒羽町、協同病院裏手にある角の廃墟。

いまも東日本大震災の爪痕が残っている。

 

 

このあたりは旧奈良町(現、宮町)。

旧奈良町は色街でにぎわった街だそうだ。

わたしが水戸にいた時代にはすでに色街は廃れていたが、ベンガラ色の艶っぽいカフェー建築がその昔は軒を連ねていた。

このあたりは昭和の時代はとてもいかがわしく、猥雑な雰囲気の残る街並みが広がっていた。

 

 

それも東日本大震災で大半が取り壊され、櫛の歯が欠けたように空地が増えて、気がつけば駐車場だらけになってしまった。

 

 

わたしが中学生だったころは、個人経営の食堂やラーメン屋などがまだ残っていた。

それこそ映画の寅さんに出てくるような街並みがあった。

 

 

宮下銀座商店街。

真ん前には東照宮の参道。

 

御宮様という神殿はいわば「キヨメ」だが、それを囲んで色街や人間の欲望の息遣いが聞こえてくる飲食街、すなわち「ケガレ」の装置が配置されているという構図に、大変興味を覚える。

いわば「キヨメ」と「ケガレ」が表裏一体になった街の構成がそこにある。

まるで何か娑婆世界の縮図を見る思いである。

 

 

昼下がりの宮下銀座商店街。

アンニュイな空気が流れる。

 

 

現在の形態は昭和45年に形作られたという。

その昔は国道50号線側には水戸東映シネマがあった。

東映の映画といえば任侠映画だ。

エログロナンセンスの猥雑で怪しげな空気がその昔、このあたり一帯を領していた。

 

 

旧奈良町ももちろんだが、その名残か、このすぐ近くにはポルノ映画館やストリップ劇場もあって、それはもう昭和カオスそのものだった。

そう、先ほどのお宮様の参道脇には「新水戸会館」という最上階がホテルニューオータニもびっくりの回転式展望中華レストランを具備した一大アミューズメント施設があった。

そこには映画館もあったし、いまでいうスーパー銭湯みたいな浴場(ローマ風呂とか云ったと思う)もあったし、なによりそこには「結婚式場」が鎮座していたのだ。

お宮様で神式の結婚式を挙げて、そこから直通の地下道みたいな道を通ったら、新水戸会館の披露宴会場に直結してるという、ちょっと信じがたいシチュエーションが実際にあったりしたのである。

 

それも今は昔だ。バブル崩壊後の失われた20年ですっかり街は疲弊した。

 

 

地元に就職先が見つからないため、若年層は都内に流出した。

少なくとも一都三県の首都圏に行ってしまった。

そして年老いて疲弊した街並みがあとに残された。

 

 

県庁が郊外に移転したのも水戸の旧市街地が寂れた主だった要因かもしれない。

いずれにしても、旧市街地はいまや空き地が点在する寂しい街になってしまった。

 

 

その昔は「水戸放送」といって、街頭放送が流れていた。

その街頭放送も耳にしなくなって久しい。

 

 

かつての猥雑で人いきれに塗れた空気はもはやない。

 

 

しばらく散策をして、弟と別れ、帰途についた。

 

 

今年の前半は実家の売却処分で何度か足を運ばなければならなくなる。

 

 

そうしたわけで、個人的には忙しくなりそうだ。

ただ、いずれにしても、いままで伸ばし伸ばしにしていたことだ。

早く決着をつけなければならない。

 

 

旧県庁。

中学時代は毎日この道を通って通学していた。

春はお堀の桜がとても綺麗だった。

 

お堀の桜は今年も綺麗な花を咲かせるのだろうか。

 

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アルゲリッチのピアノ演奏でチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」。

 

今日も一日、お気持ちさわやかに…。