振り上げた拳をどう下ろすか


非常に難しい


しかし一度振り上げれば下ろすしかない


終わらせたいなら


どう振り上げたか、どう下ろすかでその事象の意味合いは変わってくる


こんなことはどんなシチュエーションで多いのだろうか


今回のような職場の場合は振り上げる割合はどの程度なのだろうか


相当なパワーがかかることである故にほぼないことなんだろう


今回は熟考の上振り上げたものの、下ろし方に気をつかいすぎて思うような結果が得られたかは定かではない


下ろし方を間違えれば大事になることは事実であり、細心の注意を払った


その結果大きな事象には発展しなかった


自らもダメージを受けなかった代わりに相手にはかすり傷程度になってしまった


当然意味はあったし、布石は打てたのだが、、、


このモヤモヤする気持ちはなんだろう


結局のところ被害を受けたはずなのにそれについて決定的な罰のようなものはないのだから、一体あの期間、時間はなんだったんだろうかと思った


嫌な思いをしたこと、本当に嫌な思いをして精神的に追い込まれたこと、悩みに悩んで拳を振り上げたストレス、悩みに悩んで拳を下ろしたこと


ただただマイナスだけが残った


もっと大きなマイナスは免れたものの、無意味なマイナスだけが残った


これはいじめと同じだろう


やられた側には結局のところ強くその嫌な思い、記憶だけが残る


本当に難しい


こういった人間を排除できないのだから


拳を振り上げることなく多くの人が去るのは、そういう結論に至っての判断なのであろう


はたまた拳を振り上げるという選択肢もない可能性もある


知ってる知らないの世界で


要は自分の考えうる選択肢のなかでの判断である


私の選択もあくまでも自己満足なのだろうか


でもそれが大切


自分で選ぶこと、より良い選択をすることが


皆が生き生きと暮らせる社会になることを強く願うし、自分は少なくともそうでありたい

やはり正しいと思うことをやるのが一番良い。


後悔しないから。後悔よりしんどいものはない。


当然熟考して、熟慮しての判断の上での正しいと思うことが前提であるが。


やっぱりこれが僕の不器用ながら筋の通った生き方なのだと思う。


現時点の自分としては。


こういう部分が更に歳を重ねれば変わるものなのか、それともこれこそが先人のいう年齢を重ねても変わらない部分なのか、、、


今はわからないが、僕の本質は昔から変わっていない。

軸の部分は昔から変わっていない。


見た目や、軸を纏う周りの部分はさすがに変わっているはずだが。


こうしてみな歳をとっていくんだろう。


限られた時間、人生、しっかり納得いくよういきていきたい。


後悔だけはないように。

変えるのは自分自身の心の持ちようなのである。


全て自分でどうしていくか、いきたいか、いかなければいけないか。


それがよく分かった。


助けてくれたり、相談に乗ってもらったり、色々やってもらっている


しかし、最後は全て自分なのである。自分で考えて、判断し、自分で責任を持つ。


今回の一件は極めて悩ましい。


自分が納得できるのか。納得できないのか。


1つずつの事象について、そのあとの反応というものがある。結果というものがある。


今の自分の心のなかはその結果である。


その場ではすっきりした、解決したと感じても実際はそうでないこともあるのだ。


その後のジワジワと染み出すような感情、心境の変化が今の状態であり、これは不健全であるとおもう。


我慢すべきと言われれば、そうかもしれない。

でも我慢だけが全てではない。


だって目的も達成されていないことに気付いたのだから。


万が一の保険はかけることができたかもしれないが


但しそれも感覚的にはかけかたも甘い気がする。


もうどうなっても良い、今の状況を打開することに舵を切ろう。


その判断はこれまでの経緯も含めての今のところの最新状況なのだから。


それを希望するかしないかということではなくて、やむを得ずここに行き着いた。


多くは望まない。


平和に働かせてくれ。


まだ戦いは続きそうである。