あの日から15年の歳月が流れました。
今年のこの日のこと。今日はいつもと違う筆致で残しておきます。
「旅せよ平日! JR東日本たびキュン♥早割パス」。1日用で1万円ぽっきり。JR東日本管内の自由席が乗り放題になり、指定席も2回まで交換ができる。さらに第3セクター運営に変った路線さえも利用が可能なのだ。
毎年、この時期の平日のみに使用ができるこのパスも発売から3年目を迎えた。
発売初年の一昨年、このパスの発売に背中を押されて、初めてその日の岩手県大槌町を「一人」で訪ねた。
昨年は2日用を購入し、1泊で訪ねることが叶った。アポもとらず、失礼は承知で町長も訪ねた。当時の総務係長。あのプロジェクトの推進にともに汗を流した。
今年は1日用のパス。「上野駅」6時10分発のやまびこ号。浄土真宗の僧侶の書かれた本2冊を持参で。9時5分、最初の乗り換え駅の「新花巻」へ到着。1冊目は読み終えてしまっていた。
9時22分、「快速はまゆり」に乗り換え。2両しかない自由席車両だったが、ほぼ全員が座れたようだ。
ボックス席で一緒になった若者たちの会話から、この快速車両もこの週末のダイヤ改正のタイミングで新型車両に変わることが聞こえてきた。
持参した2冊目の本も半分ほど読み終わった頃、この線の中間点にあたる「遠野」駅に到着。ここまでの記憶はあったが、そこから先は本を握ったまま、鉄路の心地よいリズムに眠りに落ちていた。
10時52分、釜石駅に到着。同じホームに止まっている「三陸鉄道」に急ぎ乗り換える。10時58分、三鉄発車。
今度は同じボックスに大きな花を持ったご婦人らと一緒になった。向かいのご婦人は慣れた様子で、私の隣に座ったお婆様にここからの旅程を説明を始める。
隣のお婆様が手書きの旅程表を取り出し確認を始める。隣の動きに目が行った瞬間、そのお婆様が早朝「小竹向原」駅を出発していることの手書きの旅程表が私の目に飛び込んだ。私と同じ練馬区内の駅名である。
向かいのご婦人に私が訪ねた。
「東京からですか?」
「ええ。大槌ですか?」
「はい。」
釜石から大槌駅まではわずか3駅、17分間の乗車だ。私は大槌町とのつながりを実に簡潔に説明した。
ご婦人たちのグループは、大槌町内のどちらかの公民館に「歌」を届けに来られていた。震災の翌年から、コロナの期間を除いて毎年来られているという。
この町に思いを寄せる「東京の人」に初めて会った。嬉しかった。
お婆様のメモにもう一つ、「さんずろ家」という文字を見つけた。
自分の知っている名称というのは、他の文字を「読む」のと違い、勝手に目に飛び込んでくるものだ。
「お昼はさんずろ家さんへ?」
「バスで迎えに来てくださってこの後、昼食です」
「私も亡くなった仕事仲間が、いつも連れていってくれたお店なんですよ」
「行かれるんでしょ」
「いえ、日帰りだし、時間的に厳しいので今回は見送ろうかと」
「行かれれば、そのお友達もきっと喜ぶと思うわ」
刺さった。その通りだ。
電車の本数が少ないのは承知していたので、私も「プランB」として大槌駅からさらに2駅先のその店の最寄りの「浪板海岸」駅に行った場合の時刻も「紙」に用意していた。
「行こうかな」
「喜ぶわ」
往路の旅程の約6時間、本としか「会話」をしていなかったのに、往路の最後の10分間の出逢いが私を押してくれた。
大槌駅ではほとんどの人が下車していった。
いつも下車する駅で降りないのは不思議な気分だった。
ワンマン運転の運転手さんに、パスを見せたり、現金で運賃を払うお客さんがたくさんのおかげで窓の外にゆっくりと目をやる時間ができた。
そこには小さなお子さんを連れた家族連れが、この電車で到着する「誰か」に向かって懸命に手を振っている姿が見えた。
この日が「ご命日」という方があまりにも多すぎる。この電車を降りる多くの方々の分だけ哀しみがあるのかもしれない。しかしそれは同時に「1年振りの再会」という「ご縁」の日でもあることに気づかされた。
大槌駅からさらに2駅9分。「浪板海岸」駅に11時24分に着いた。ワンマンの運転士さんにパスを見せ、早歩きで店を目指す。しかし海岸方向に歩いているのは私だけだった。
海岸線沿いにある旅館兼食堂のこのお店はかつてから人気のお店だ。この駅で許される滞在時間は「約2時間」。外まで行列のできるお店だ。「いか腑定食」なるメニューもある。新鮮さが売りの評判のお店だ。店に着くと3組待ちだった。開店直後に入ったであろうお客さんとちょうど入れ代わり始めたようだ。
ほっとして店内の椅子に座って待っていると、電車でお会いしたご婦人さまたちご一行がやってきた。旧知のように手を振ると、旧知のようにかえしてくれた。
「来ちゃいました。戻りの電車に間に合いそうです」
「よかったわ」
「声をかけてくださりありがとうございました」
「お友達喜ぶわ」
コーディネーターの地元の方にも、私のことを紹介してくれた。そして予約がされている奥の座敷へと向かわれた。
私は席を立ちトイレに向かった。鼻の奥が猛烈にツンとしていた。
周りのお客さんに涙を見られたくなかったが、次に来た女性のお客さんに、トイレの前でその姿をしっかり見られた。
戻ると私の名が呼ばれた。3つしかない窓際のテーブル席に案内してもらえた。4人座っても十分に広い席。しかしこの角の特等席は、かつて役場の友に連れてもらっていたときの「懐かしの席」だ。
晴れ渡った空、青い海。ガラス越しでも十分すぎるくらい美しい風景が撮影できた。
これだけの混雑にもかかわらず、思いのほか早く注文した「海鮮丼」がやってきた。
と同時に、こんな広い席を一人で使用していいのか、ということも店の方に訪ねた。
「大丈夫」と短くも懐かしいイントネーションが返って来た。
きっと案内の順に配席していかないとかえって混乱を招くのだろう。いらぬ気遣いだったかもしれなかったが、気質ゆえ気になったままは嫌だった。
その時だった。前の椅子が動いた。忙しく動くお店の方の体に触れたのであろう。
私の感性は、そのほんのわずかな動きをも拾っていた。
私は瞬時にいつも向かいの席に座っていた友が帰ってきてくれたのだ、と思った。
思わず小さく話しかけてみる。
「おーっ!来たか」
無論返事はない。
昨年もこの隣の大きな席に案内してもらえたことを思い出す。
ひょっとしたら私には見えていなくても、お店の人には「二人」で来ていることが見えているのだろうか。
いや、「一人」のお客さんの多くは、私と同じように何らかの哀しみとともにこの店を訪れているだろう。そんなお客さんへの、お店の配慮なのかもしれない。
いや、単なる偶然。
に、してもだ。こんな景色のよい席に毎年当たるわけがない。
「お前、今日も磯ラーメンか。お先にいただきます。」
向かい側にあいつがいると思うと、何だか急に楽しくなってきた。
もし周りで私のことを見てた人がいたのなら、どれほどおいしい「海鮮丼」を食べていたのか、と映っていたことだろう。
懐かしの海、懐かしの味。美しい空。これほどのご馳走にはなかなか出会えない。
「至福」という言葉を使ってもいいと思いながらひとときを過ごせた。
これも電車でご婦人と出会わなければ味わえなかったこと。
またご縁あれば、きっとどこかで会える。帰りがけ、そう思い団体席の方に軽く会釈した。
レジにはおかみさんが対応してくれた。忙しいのにこれも偶然。
友とここのおかみさんは旧知の仲であったことは、当時から見ればわかっていた。年齢的には幼馴染みといったところだろうか。
「今年も〇〇に会いに来ました」
亡くなった友の名を告げると、すぐに私のこともわかってくれた。
支払い方法を告げるが返事がない。泣いていた。
前月、一周忌に訪ねた旧友の「Yくん」の奥様を泣かせてしまったばかりの「前科」が私にはある。
私も今年になって幼馴染みの女子が亡くなった知らせをもらったばかりだった。
淋しくて仕方のない知らせだったが、受け止めるほかない事実。
この日、おかみさんの涙を見て、ここのところ私は「人前で泣いていないな」と思った。
その人を覚えている人がいる限り、その人は生きている。
かつて永六輔さんはそう言った。
その人を思い出して泣いている人がいる限り、その人は生きている。
私はそう思う。
「悔しいねえ」、とおかみさん。
「悔しいね」と私。
そして、「広い席のおかげで二人でゆっくり食事ができました」と礼を告げると、おかみさんはただ黙って「うんうん」とうなずいた。
店を出て考えた。
この15年、私は何に苦しんでいたのか。
友と突然逢えなくなったことか。
私も亡くなっていたかもしれなかったことか。
プロジェクトの第一弾が苦労の末、成功に終わったのにその続きができずになってしまったことへの悔やみか。
被災半年後の町に入った後、その後長い間再訪することができなかったことへの後ろめたさだろうか。
「元気でよかったじゃん」
そう声をかけてくれた東京の同級生にさえ、素直に「そうだね」とは言えなかった。
今日まで何とか来られたのも、見守ってくれた妻のおかげである。ただ寄り添ってくれていた。
これらへの思いはきっとこれからも消え去ることはないのだろう。
「記念日反応」というものがしっかりと働いている。今年も2月になるや「センチメンタル」な旅に出ていたのも無関係ではないことを旅の後に理解した。
ここまでの歩みを昨年まとめていた。
遠くの防災無線からは、正午を知らせる放送。「ひょっこりひょうたん島」のメロディだ。モデルとなった「蓬莱島」が町内にあることからこの曲が長く使われている。
「だけど僕らはくじけない 泣くのは嫌だ 笑っちゃお 進め!」
そうだ、この町の人たちは毎日、そして今日もこのメロディを聞き続けて暮らしていることに気づいた。くじけそうになった時も、心が折れているときも、今だって前向きなこの歌詞に歯を食いしばっている人もいるはずだ。
今年も海岸への「階段」へ。
昨年、苦しみなく降りることのできていたこの「階段」。
過去の経験は、ときに眠っている記憶が恐怖となって呼び起こされることも経験済みだ。
一昨年、八戸の海岸を訪れたとき、不意に訪れた小さな「パニック」。これはショックだった。もう大丈夫のはずだったのに。
昨年のこの地での「荒療治」は、「心の受け身」の取り方も学習していたらしい。
今年も自然と階段を下った。
波打ち際まで来た。ただそれだけのことができなかった。その心理は何だったのか。「生」への執着だろうか。だとしたら逝ったみんなにやはり申し訳なさを感じてしまう。
虫や鳥たちも、人が近づけばとっさに逃げる。その「命」を守ろうとする。海の怖さを知っているのと、臆病なのは別のことだ。
海の青さと香りだけを知っている人は、この雄大かつ好天の景色を見れば気持ちが晴れるだろう。
「忘れることを作ってくれた神様に感謝をしなければ」
近年、「チューリップ」が歌い上げたこの曲を好んで聞いている。
風は強かった。誰もいなかった。波のぶつかる音。風を切る音。時折通る車の音。
ただその中に身を置いていた。
去年はここで、逝ったみんなとの「会話」を試みていた。成立しなかった。
引き波がない、「浪板海岸」。海岸線の石が「ごろごろ」と音を立てて引いていく。心地よい音だ。それに風の音が加わる。時折り通る車の音も加わる。誰もいない海。条件は揃っていた。
叫びたくなった。青春ドラマのように。海に向かって叫ぶのは「初めて」だった。
そんな気恥ずかしいことが本当にしたくなると思わなかった。
同級生のOくん、Yくん、そして幼馴染のKちゃん。お別れした順にその名を大声で叫ぶ。気持ちがよかった。恥ずかしさは風が連れていってくれた。
条件はみんなが整えてくれたに違いない。
みんなに確実に届いた手ごたえだけはあった。みんなのことを思い出す。みんなの「声質」を忘れていない。嬉しかった。何だか嬉しくてしょうがなかった。
海岸を後にした。道沿いに残るこの一本の樹も津波を耐えている。強い海風が、海側への枝を伸ばすことを許してもらえないようだ。コートの襟を立てる。風さえなければ「真冬」を通り越している体感だった。
この樹にも思いが及ぶ。
樹には脳がない。心臓がない血管もない。にもかかわらず成長しじっと立っている。季節になれば花を咲かす木もある。いったい木のどこの部分がその命令をだしているのだろう。
厳しい修行に耐え、悟りをめざす修行僧の姿に見えた。本当は悟りを開いた「究極」の姿が「樹」なのかもしれない。
戻りの電車の時刻までまだ一時間弱を残していた。ならばこの地でもう一つ訪ねたい場所がある。
駅を越えてその先の坂道が来るたびにきつくなっている。ダウンジャケットはおろか、パーカーさえも暑く、汗がにじんだ。そして今年初めてブラウスシャツ一枚になた。
ここは「風の電話」だ。この日訪ねる前週、NHKで特集番組がオンエアされていたのも観ていた。ちょうど10年前に特集されていたときに登場していた少年は、青年になっていた。
着くと先客が電話中だった。視界に入らないように、一度ここを離れた。
遠くからボックスが空いたのを確認して近づく。途中すれ違うときの挨拶の言葉は見つけることができなかった。小さく会釈した。
「もしもし。」声が枯れていたのは涙ではない。先ほどの海での絶叫のせいだった。
ちょっと調子が狂った。
今日は長電話は禁物だ。ボックスの扉を閉めるときに、敷地の外に一台の車が停まったままなことに気が付く。先ほど電話を終えた人の車ではないようだ。
ひょとして順番を待っていた人を抜いてしまったのかもしれない。とは言えここで電話せずに出るわけにもいかなくなった。
まずは大槌の友に。そして父に。二人だけと話した。近況の報告を手短かにした。
電話線のつながっていない電話。ここで溜まりに溜まった思いを吐き出しに来る人は多い。それも男性が多いという。
いつか歌手の「クミコ」さんが言っていた。
「歌うことは誰かの涙の道筋をつけてあげること。涙の出口を作ること」と。
この電話ボックスを自らの私有地に作った佐々木さん。それを目指して日本はおろか世界中から足を運んだ人がいるということをNHKの特集番組で知った。そしてこうした「電話機」が今や世界中に設置されているそうだ。
「スマホ」全盛の時代においても、握りしめる「受話器」の役割が終わっていないことも知った。
今日もまた「降参」というまで民間施設さえも爆破を指示し続けている指導者。
その向こうに幾人もの、やがて「受話器」を必要とする人を生んでいることなど想像すらない。
「グリーフケア」とどう向き合えばよいのかがわからなかった私の長い年月。
「風の電話」はそれを支えてくれた。感謝に絶えない。皆が何年経とうとその「苦しみ」とともに生きていることがわかる場所。
そんな素晴らしい場所が、「大槌町内」にあったことにも助けていただいた。
ここでは感情が昂らなくなっている自分にも気づけた。
深くお辞儀をして、佐々木さんの敷地を後にした。
駅を出てすぐ、二つの「津波到達の地」の碑がある。一つは「平成」、一つは「明治」の「三陸津波」のときのものだ。ここより山側へ必ず避難せよということを「叫んでくれている」ことに敏感であり続けてほしいと思った。
この日帰り旅の直後に行われた先月のダイヤ改正では、我が家を始発で出発しても「大槌」駅に到着するのが「12時32分」へと変わってしまった。この日より一時間以上遅く着くわけだ。
「大槌」駅を往復するだけなら日帰りも可能だが、ここ「浪板海岸」まで足を伸ばしたなら「大槌」での式典で「14時46分」を迎えることが来年からは無理になった。
電車でいただいた進言のおかげで訪ねることができた「浪板海岸」。
日帰りでここまで来られるのが、最後になっていたとはこのとき知らず。
時間を心配するあまり、この駅までの訪問をためらっていた私の慎重すぎる気質。来てよかった。来られてよかった。「後悔」のないよう、訪れられたのが本当によかった。
「 後編 」に続きます![]()














