2024.6.28「私の百寺巡礼第二十七番」霊場での不思議体験 「恐山菩提寺」へ | ミラーレス一眼越しに、私が見た風景たち

ミラーレス一眼越しに、私が見た風景たち

~たゆたうはロマンか、センチメンタルか、メルヘンか

「大人の休日俱楽部パス 5日間 4日目 その1」は、「私の百寺巡礼」と題して、私がライフワークとして行っている参拝の「第二十七番目」のお寺として、「恐山菩提寺」を訪問したときの模様をまとめます。

 

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「百寺巡礼」。

作家の五木寛之さんがかつて二年間をかけて、全国の百の古刹・名刹を訪ねるということを成し遂げられました。
それらは書籍化だけでなく、放映もされて、当時私の心を揺さぶりました。

その足跡を追う旅が始まったのが2018年11月。
題して「私の百寺巡礼」

この旅の終わりにいったいどんな風景が見えてくるのでしょうか。それを探しに今日も歩きます。
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日本三大霊場の一つに数えられる、青森県むつ市に位置する「恐山」

「恐山」と言えば、盲目の巫女が死者の霊を呼び下ろす「イタコ」の口寄せで知られている。

参詣者はその言葉に触れ、山内に供物を捧げ成仏を願う崇高なる地、というイメージが強く、若い頃にはとても恐れ多くて近づきがたい感が強かった。

間もなく7月20日からの5日間、その日が「恐山」の「夏の大祭」だ。今では「イタコ」さんも減少し、この期間にしか会えなくなっているとも聞く。現に私が訪れた日も一人の「イタコ」さんに出会わなかった。

 

この地へ足を運ぶ人の想いは強い。この日行ってみて、心からわかった。

五木寛之さんが2年間で成し遂げた「百寺巡礼」。この本に、この放映に出会わなければ、この日私はこの場所に立つことはなかっただろう。

その「百寺巡礼」史上、最北の寺「恐山菩提寺」。この日ここに、不思議な縁を感じつつまるで呼ばれたかのようにたどりついたこのお寺での体験は、いつもとちょっと違う筆致でまとめてみたいと思います。

 

北の地の朝は早く、日暮れも遅い。前夜遅く寝たが、この日も早朝に覚醒してしまった。

それはホテルのカーテン越しでも、十分に明るすぎるくらいの朝陽だったからだ。

 

全国のホテルを泊まり歩いていつも感じていたこと。「また東京のニュースか」

テレビを点けると、どのチャンネルも早朝からの東京の豪雨ばかりを報じている。警戒レベルに達した降り方だという。東京のことを案じた。

東京のことなら、全国のどこにいても詳しくわかる。知りたかった青森の今日の天気を聞くことはできなかった。

 

梅雨前線は、この東北の北の果てまでは遠く及んでいないようだ。

私は、東京の友たち数人へこの写真を送信した。「日本は広い」のキャプチャを添えて。

午前6時をまわったばかりのこと。既読はついたが、無論誰からの返信もなかった。

 

ホテルの朝食は駅に併設の喫茶店でのものだった。6時15分の開店と同時に入店したが私は4組目。手早く用意された朝食を頬張り、いつものように余裕を持ってホームへと向かった。

初めての駅、初めての路線のときは特に慎重になる。特に朝の時間は予想もしない混雑、行列にもたびたび出くわしているからだ。

 

八戸駅7時16分発の「青い森鉄道」。高校生たちはほとんど立っているが、それ以外のお客さんはほぼ座れているようだ。

 

高校生たちは途中の「三沢」駅でいっせいに降りる準備に入る。

「三沢高校か」。私はそうつぶやくと、とっさに太田幸司投手のことを思い出した。

 

「昭和44年夏の甲子園、東北勢戦後初の決勝進出」

「決勝戦延長18回 引き分け再試合」「翌日の再戦も幸ちゃん完投するも栄冠ならず」

列車の扉が開くと同時に、野球好きの私の記憶も一瞬にして開いた。

 

8時1分、「野辺地」駅に到着。かつて「青春18きっぷ」の旅でも幾度となく経験した「跨線橋」を渡っての乗り換え。しかしみんなそれほど慌てていない。

8時6分発のJR大湊線は、青森駅方面からのお客さんとここで融合し、さらに北へと進路をとる。私にとって本州最北の電車の旅でもあった。

 

途中トイレに立つ。列車最後方からの景色が目に飛び込む。それはひたすら防風林の間に続くまっすぐのレールだけだった。

「この果てしない距離に、鉄路を敷いてくださった先人がいる」

今日の旅が成り立つのもそのおかげ。人からは「感謝しすぎ」とも言われるが、そう思わずにいられない性分である。感謝にも「しすぎ」があるのだろうか。

 

途中嬉しい駅名に出会う。「陸奥横浜」。いつだったか「鶴瓶の家族に乾杯」でもこの町が紹介されていた。ゲストは番長こと、横浜DeNAベイスターズの三浦大輔監督だった。

 

陸奥の「横浜」駅で上り列車との交換を終えると、9時2分、定刻通り終点の一つ前の「下北」駅に到着した。出発の八戸駅から既に二時間弱の時間を要した。

 

ここからは「下北パス」に乗り換える。ここまで「大人の休日倶楽部パス」がすべて使用できたが、このバスだけは現金が必要となる。

 

旅の経験は、人をさらに慎重にさせる。事前に小銭で「810円」を二組用意して、下車時をスムースに、と考えていた。それは杞憂に終わった。

バスの乗車口の外で、事前にこの券が購入できた。私は用意してきた小銭を出し、「細かいですけど」「小銭助かります」の帰ってきた言葉に、少しだけお国のイントネーションを感じて嬉しくなった。

この乗車券には「通番」が印刷されていた。そういえばかつて紙の切符には番号も印刷されていたことをもう忘れていた。「4093番 4094番」。往復で購入する方がほとんどであろう。とするとこのチケットを購入した人は2000人ちょっとということになる。4月以降だろうか?もしくは1月からなのか。これだけ名前が知れ渡っている地にも関わらず、思っていたよりずっと少ない数字であることも驚きだった。

 

乗り換え時間わずか8分。定刻9時10分のバスだが、トイレに寄る人、キャリーケースを預ける場所を探す人を待っていても十分な時間に思えた。

キャリーケースはこの駅では預けることができず、結局何人かの方が持ち込まざるを得なかったが、隣席の空席も多く、荷物も乗せるのにスペース的な問題は発生しなかった。

 

恐山でも「ご厚意」で預かってはくれるようだが、あくまで「ご厚意」。旅の形態も変わっていく中、今度来たときにはどのような形になっているかを考えていた。

 

慎重派の私は荷物は前夜のホテルに。この日は青森市内への移動ゆえに持っていきたいところでもあったが、「大人の休日倶楽部パス」持参者ゆえ、一度また八戸に戻っても「新幹線」で移動することができる。身軽な旅が実現できるのも「大人の休日倶楽部」様様だった。

 

私は後方の席に陣取り、恐山へと向かわれる人々の年齢を見ていた。

「やはりここでは最年少か」。還暦を過ぎた人間には縁遠くなった言葉だ。

年齢層の高さは推測していたことだ。かつて旅先で天災に二度会い、死を現実のものとして受け止めた。東日本大震災の経験は、私のその「距離感」を一気に縮めたことが、今日なお私をときどき苦しめている。

 

バスは市街地を抜けると、途端に山道へと入った感があった。山中に入ったのだ。ヒバの樹林の中をくねくねと曲がるさまは「日光 中禅寺湖」を目指す道程にも似ている。私は車酔い防止のため、カバンからガムを取り出している最中だった。

 

「ここで3分ほど休憩します。名水の冷水(ひやみず)です。降りられる方はどうぞ」。

 

カーブが続く山中。ここでの停車は私には嬉しかった。

はじめは半分くらいの人しか降りて来なかったが、みんな行くならということだろう。結局全員が降りたようだ。

 

京都・清水寺の「音羽の滝」よろしく3本の水が、山から注ぎ出ている。

こういうとき、なぜか「真ん中」を希望してしまうのも、私の何かしらの煩悩のなせる業なのだろう。

 

「あ、ここだ」

テレビの「百寺巡礼」では冒頭に出てきた場所だったことを思い出した。

私はこのブログ用に、人が写りこまないカットを狙っていた。

その時である。

 

突然、若い女性が写真に写りこんだ。

 

「私が最年少ではなかったんだ」。

どこから、いつから乗っていたのだろう。気が付かなかった。不思議だった。

 

やがてバスは恐山へ到着した。終点だったので到着時刻は見ていないが、定刻に着いていたなら9時53分のはずだ。八戸駅から乗り継ぎながら2時間40分。すべてが私にとって初めての路線。車窓を見ているうちのあっという間に感じた。

 

こうして文字で見ると、改めて何かしらの恐ろしさが湧いてくる。

ここでも私は、帰りのバスの時刻を確認する。

帰りは「13時5分」。恐山滞在時間は約3時間。それが少ないのか、長いのか。

何しろ初めてだからさっぱりわからない。

 

バスから降りた皆さんは、もうとっくに先に行っている。

「結界」を示しているのだろうか。ここから先は死者の魂が集まる聖地なのか。

 

「死ねば恐山(おやま)に行く」。古くから言い伝えられているこの地に、還暦の年に行くことを決断したことも、実は何かに招かれたのかもしれない。一礼してここを通り過ぎた。

 

最初の小屋で入山券を購入する。一人500円也。入山券にも通番が印字されていた。

「令和6年 9371番」とあったので、年明けからのものらしい。7月に入ったいま、10000番は越えただろうか。

 

まずは「総門」をくぐる。硫黄の匂いがどんどん強くなってくる。

 

「総門」を超えると、その先に立派な「山門」がそびえたつ。平成元年の建立になるそうだ。

 

「東日本大震災物故者諸精霊供養」の文字。私は被災した沿岸には岩手県大槌町以外に、この13年間で宮城県の松島、そして前日の八戸、この三か所しか訪ねられていない。

東北のこの地、この霊山に来られたことで私の生き残ったことへの罪悪感がまた少し薄れることができればいいのだがと考えていた。

 

山門手前の「本堂」である。「山門」の奥に立派な「地蔵殿」が見えていたので、ご本堂を間違えそうになった。ここでは靴を脱いで堂内でのお参りができる。今日無事にここに来られたこと、さらに新しいご縁に感謝の念を捧げた。

 

「山門」を越え、常夜灯が並ぶ参道を進む。

 

この山内でユニークなのはこちらの小屋だ。「男湯」とある。

 

小屋の中は温泉になっている。入湯料はいらない。入山料だけで入ることができる。

聞けばかつて恐山は、湯治の地でもあったそうだ。宿坊もあるので、もちろん今でもそうかもしれない。

この小屋、驚くことにかつてはなく、露天だったそうだ。それも混浴で。繰り返すがここは境内の中だ。

 

反対側にも二つの小屋。

 

二つとも「女湯」だった。しかし常連らしき男性の言によると「あいていれば男も入っていいんだよ」という。まさか冗談で言うこともないとは思うが、真偽のほどは定かではない。

中の様子の違いも見てみたかったが、扉を開ける勇気は起きなかった。

 

「地蔵堂」だ。中には「延命地蔵尊」がまつられている。

友や家族の安寧を祈り、「般若心経」を納めた。

 

「地蔵堂」のすぐ左手が「地獄めぐり」の入口である。

ここで私は持参した「熊よけの鈴」をリュックに装着する。

その鐘の音は、まるで巡礼者の鈴の音にも聞こえ、自身への「癒し」にもなった。

 

「地獄めぐり」のスタート。硫黄臭が一段と強くなった。

 

 

 

この階段の先、山の中に「奥の院 不動明王」さまがいらっしゃる。

東京は大雨だったが、北東北のこの地には容赦なく夏の光が差し、地面からの熱と白い大地が光の反射を一層強めている。

上るのを少しためらったが、皆さんも行かれるので上ることにした。

 

ゆっくり、熊の出現にも念のため気を配りながら進む。上りきったところにお不動さまは鎮座されていた。少しの日影が嬉しい。私はこの訪問の少し前に亡くなられ、直葬ゆえにさらに無念が残るといっていた知人の代わりに、ここで故人の名を告げ、冥福を祈った。

 

その戻り道、眼前には「地獄」の全景が広がった。

 

先ほど出発した「地蔵堂」。床下から噴気が出てこないのだろうか。

 

重罪を犯したものが落ちるという「無間地獄」へ。

 

以前は熱湯も噴き出していたと言う。

 

「大平和観音」さまに出会う。地獄の一番頂上に来ていた。

遠くに「極楽」の風景も見えた。

 

石積みの中に埋もれている。

 

「英霊地蔵尊」へ。

 

お賽銭は、硫黄だろうか、硫化水素の成分のせいであろうか。火山の成分ですべて変色していた。

 

地元の歌人、本山栄一の句碑「人はみな それぞれ悲しき 過去持ちて 賽の河原に 小石積みたり」とある。

 

自分だけが悲しいのではないのだ。そんな思いに改めて気づかされた。

 

どこからか流れ出したる一本の川筋。これも三途の川であろうか。

 

「水子供養地蔵尊」の祀られる池には、目にも鮮やかな蓮の花。

 

「八角円堂」。ここの手前で泣き崩れ、しゃがみこんでいた女性を見た。

訪れる人々は、様々な場所で感情をあらわにする。それが許される場所が「恐山」なのだ。

 

お堂の中は、故人を偲ぶ供物で溢れかえっている。いよいよ悲しみのより深くなる場所へとたどりついた。

 

「八角円堂」を出ると、「極楽浜」は近い。

右手のお地蔵さまに、人がいるのかと一瞬はっとしたことを思い出す。

 

「血の池地獄」とある。酸化鉄が流れ込んで血の色だとガイドブックでは学んでいた。

鉄分が少なくなったようだ。自然はあくまで自然のままの姿を私たちに見せてくれる。

 

一方、その先に流れ出ている水は異様な色を呈している。

 

「賽の河原」一帯を抜けると「極楽浜」が広がる。ここまでの景色がまた一変した。

 

手前の池の中からは、ぷつぷつと噴気も確認できた。

 

浜に立つ「東日本大震災供養塔」に着いた。

 

両脇には「鐘」が備えられている。やはり変色している。「鎮魂の鐘」は思いのほか大きな音で浜に鳴り響いた。

 

「哀悼の辞」が記されている。

 

そしてたくさんの手形が彫られている。私もいくつかの手形に手を合わせ、フィットした手形のところで、大槌町の知人の名を呼んだ。そして会話が始まった。

驚くほどスムースな会話だった。私の心がどんどん赦しを得ている実感があった。

 

自分が一人で二人分しゃべっているわけだ。後で思ったのは自分の都合のよい会話の内容を自分で創作していないか、ということだった。

そうではないのだろう。誰もが持つと言われる「仏性」がこの会話を成り立たせてくれたのだ。私の赦しはみんなのさらなる冥福につながる。「この世」に出現した「あの世」の姿。この地で最初に感じた大きな不思議体験だった。

 

 

浜にも誰かが運んだ石積み。

 

眼前にはエメラルドブルーに染まる「宇曽利湖」。火山の成分が入ることで、もし曇っていてもこの色になるそうだ。

 

浜の一番右端へと進み、なるべく他の参拝者が来ないであろう位置に陣取る。

夏の大祭のときには、故人の名を叫ぶいくつもの声がこだまするという。

あまりにも静かな浜。叫ぶと遠くを歩く参拝者に聞こえそうだ。

 

 

正面に見える大尽山(おおづくしやま)に向かって、故人との会話が始まる。

最初は、早くも新盆を迎えた同級生の「Oくん」からだ。

 

優しかった妻との共通の先輩であり友人の「Yちゃん」は、いつも私の旅に着いてきてくれていることを教えてくれた。まだ続く。

 

17歳でお別れになったサッカー部仲間でもあった「Tくん」には、なぜあのとき私に入部を誘ってくれたのかを教えてくれた。

 

20代でお別れになった「Yくん」に至っては、私の野球観戦にはいつも一緒にいるのに、今まで気づいてなかったでしょ、といたずらっぽく笑ってくれた。

 

40代前半でお別れになったのは、かつての彼女。横浜美術館の開館に出かけクリムトを見た。芸術に縁遠かった私をクラシックコンサートにもエスコートしてくれた。念願の出版業界に勤め、やりたいことはでき後悔はないという。人生は「長さ」ではないことをここで教えてくれた。

 

最後に「父」との会話を試みた。叶わなかった。父は仏壇に毎日手を合わせているからだろうか。ここには来ていなかったようだ。

 

最初に「Oくん」と話した時だった。

 

「おーい、聞こえるか?来たぞ」と言ったときだった。それまで静かだった湖に風が吹き、湖面が大きく波だった

 

「聞こえたんだね。ありがとう」。こうして返事をしてくれることがわかった。コツがわかった後の会話は、次の誰ともスムースだった。

 

どれくらいの時間、会話をしていたのだろう。あちらのみんなの気持ちが嬉しかった。

いつの間にか涙があふれていた。この湖の美しさの理由が理解できた。

 

会話を終えると、急に恥ずかしさがこみあげてきた。

会話が聞こえるくらいのところに人がいたからだ。

 

しかし、距離は遠い。

何やら自撮りを繰り返しているようだ。

 

「そうか、あのバスで一緒だった女性だ」

 

近くに行くと、会話が聞こえていたかを知りたくて声をかけた。

「お撮りしましょうか?」とても立派な一眼レフカメラを持っていた。

私の首からおもちゃのような「ミラーレス一眼」が下がっている。

こういうときカメラを持参している同士の呼吸は合う。

 

「お願いできますか」

アングルを細かく指定し、ポーズをいくつもとる。撮影への慣れがすぐにわかった。

納得のいく結果を得るまでのこだわり。一生に一度訪れるかの地だ。こだわるだけこだわればよい。誰かの役に立てていることも心地よい。

さっきまでの重かった気分も、その明るさに一度に吹き飛んだ。

 

視線を下にやったとき、荷物の中から「風車」が覗いているのがわかった。

「そうか、誰かの供養だ」。明るさは悲しみの裏返しかもしれない。

 

彼女はお母さんだった。かつての悲しかった出来事を話してくれた。幼くしてお子様を亡くしたという。ご夫婦の苦しみ、悲しみは、子どもを授からなかった私には想像するほかない。母親であれば、どれだけの胸の張り裂ける思いを越えて、今日までを生き抜いてきたのかを考えていた。

その瞳から流れ落ちる雫は、今までに見たことのない美しさだった。私は頷くのがやっとだった。

 

交代で私のカメラも押してくれた。

私は自分の写っている写真をあまり残していない。

ここへたどり着いたこと。この日はとても残しておきたいと思っていた。

抜群の構図を選んでくれたことに感謝である。ありがとう。

 

聞けば、全国を旅してまわっていて、まだ訪ねていない都道府県は2県のみだという。

私は夫婦で47都道府県を回ったことを話した。

前日は秋田から来て、明日は蕪島へ行くという。私が前日に訪ねたところだ。

 

旅の途中、西から来た彼女と、東から来た私が一瞬この地で会い、そしてまたそれぞれの目的地へと旅立っていく。人生での様々な出会いも長短ではないのだろう。

 

彼女が風車を捧げる場所をともに探した。風車を立て「6年間来られなくてごめんね」とつぶやく。呼応するように風車は勢いよく回りだした。

 

気が付くと、さっきは咲いていなかった蓮を見つけた。

「届いたんだね」。私は一人つぶやく。

そして彼女の瞳から流れた涙を忘れないだろう。私も胸がいっぱいだった。

 

まるで採石場の中のような景色の中を戻った。

バスの時間まで、まだ一時間はあっただろう。

私の昼食に彼女も付き合ってくれた。

 

明日行くという「蕪島神社」の、私が前日撮った写真も興味深く見てくれた。

「会運証明書」なるものが発行されていることも伝えた。

 

後日、彼女から「運」に当たったという写真が送られてきた。嬉しかった。

 

バス停の位置からは、はるか戻ったところに有名な「三途川」はある。

昼食を終え、バスの出発までのわずかな時間。最後にここを訪ねた。

 

かつては実際に渡れたそうだ。今は老朽化のため渡ることはできない。

 

悪業を重ねる人がこの橋を渡ろうとすると、糸のように細く見えるそうだ。

 

「三途の川」の名前は「正津川」「宇曽利湖」から流れ出る唯一の川だ。

私は今「俗世」と「霊地」の間に立っている。

 

奥に「奪衣婆(だつえば)」。「三途の川」で亡者の衣服をはぎとる老婆の鬼である。

その存在は知っていたが、この世での罪の重さではぎ取る量が変わってくるものと、勝手に思い込んでいた。

手前に写る「懸衣翁(けんえおう)」の存在をこの日、私は初めて知った。

 

奪衣婆が亡者からはぎ取った衣類をこの「衣領樹」の枝にかけ、その枝の垂れ具合で亡者の生前の罪の重さを計るという。つまり、罪が重ければ枝は垂れずに届かなくなるということらしい。

 

「誰もが一度だけ経験すること」。

そのための予習もたくさんできた参拝だった。こうして人々は不安を少しずつ拭っていくのだということもわかった。

 

「宇曽利湖」の奥へと遥かに続く杭。いつ誰が作ったものなのだろう。

 

「この世」と「あの世」の存在を私に明らかにしてくれた「恐山」

本州の果ての地に、この光景を見つけた先人の想いを十分に受け取ることができた。

 

出会った彼女とは、行きの経路とまるまる逆に、「八戸」まで一緒だった。隣で話せたのはバスの車内だけで、電車の約2時間は別々の席となる。「八戸」駅の改札を出て、固い握手をしてお別れをした。

 

 

ホテルに戻ってこの日、私は最大の謎と出会った。

私は今も「万歩計」を持参している。この日の歩数がたったの「3813歩」だったのだ。

そんなはずはない。

リセットしてこの日の夕方、青森駅周辺を散策しただけでも軽く「5000歩」を越えていた。

 

故障だったのだろうか。

 

いや、電車やバスに揺られるうちに私はいつの間にか「あの世」に行っていたのかもしれない。「あの世」だから「歩数」がない。この日「現世」で歩いた分だけがカウントされたのかもしれない。

 

日本三大霊山の一つ「恐山菩提寺」への訪問は、最後まで不思議なことだらけだった。

 

 

 

本日のレポートはとてつもない大作となってしまいました。

最後までお付き合いをいただけましたこと、心より感謝申し上げます。

 

「大人の休日倶楽部パスの旅」は続きますパー