もう少し、野球へのロマンを書かせてください。
1.野球場に足を運ぶ私の「ワクワク」
まずは以下の引用から。前々回の記事でもリンクを張らせていただいた記事の中からの抜粋です。
「いつか『ノーヒットノーラン』を生で見たい、あと一人という緊張感を越えてたどり着いたその瞬間を共に味わいたいという夢は消えていません。」
(拙著ブログ 2017年8月20日「8月18日 ジャイアンツ対ベイスターズ戦 43年前のこの日、プロ野球初観戦の日の奇跡が再び眼前に」 より)
長い「野球観戦人生」の中で私はどこかで、この「非現実的な」場面の目撃者になれることを、クールなふりをしつつ、心のどこかでどうしても捨てきれていませんでした。
5回くらいまでこの状態が続くと「今日はひょっとすると・・・」と考えた瞬間にヒットが出たりするという経験をいったいどれだけ味わったかはわかりません。
2.夢に最も近づいたあの日。それは「開幕ゲ
ーム」でもあった。
それまで、その瞬間に一番近かった日はもう30年近くも前のこの日のこと。その日のことも以前、ブログに詳しく書いていましたので、少し長い引用で恐縮ですが、私の「観戦歴」の中でもトピックとなる出来事でしたので、2017年に書いた「1994年」の出来事について、当時のブログそのまま抜粋させていただきます。
さてこの94年の開幕戦はあまりにも劇的でした。近鉄のエース野茂投手は8回まで西武打線をノーヒットに封じ、チームも9回表、石井浩郎選手の3ランが出てようやく3-0とリードした最終回9回裏でした。野茂投手の、ファンの、そして私の夢を打ち崩したのは9回先頭の打者だった西武の清原選手。ライトオーバーのツーベースを放ったのでした。さすが平成の名勝負ともいわれた二人の対決。西武の四番がきっちりと仕事をすると、リズムを崩した野茂投手、そしてチーム。確か四球とエラーが出て一死満塁になったのです。
ここで私は席を立ちました。さっきまで開幕戦で念願のノーヒットノーランが見られる、もう頭の中ではそんな映画のワンシーンのような劇的な場面が見られることでいっぱいでした。しかし清原選手の一打がそれを打ち砕いた・・・。
阿波野投手の入団以来、応援を続けていたバファローズ。まだ3点差で勝っていたにも関わらず、私はなぜか「この試合は負ける」と確信し、席を立ってしまったのです。西武球場は試合が終わると一斉にお客さんが駅に向かい、終わってからだと電車が混んでしまうという思いもあったのでしょう。しかし3点もリードしているのになぜ負けると思ったのか・・・。それはそれまでの経験というか勘というほかないのですが、西武のことだからしつこくフォアボールを選んだあたりから、じわじわと一点ずつ追い上げてついには逆転するという悪い予感がありました。
と言うより、かの「10.19」で逆転優勝したライオンズ。その頃、黄金時代の真っただ中だったので、「またあの西武にやられる場面だけは見たくない」と思ったのです。
「10.19」についてはまた別の機会に書けたら書きたいと思うのですが、あの日、目の前で「引分」で近鉄は優勝を逃しました。寒い寒い中でのナイターでした。そして失望した体に鞭打って、川崎から池袋まで帰ってきた私の目に飛び込んできたのは、西武池袋駅の地下の柱という柱にすべて貼られた「ライオンズ優勝おめでとう」のポスターでした。当時のライオンズは鉄道とも百貨店とも一体だったので、西武が勝てば電車内に翌朝には早速、前日の勝利を知らせる「中吊り」が下がっていたり、優勝すれば「優勝セール」が毎年のように行われていた頃。私も西武沿線に住み、ライオンズが所沢にやってきた1979年の開幕試合も楽しみに見に行くほどのライオンズファンでした。
しかしこの時ほど、西武沿線に住んでいることを悔しく思ったことはありません。西武沿線に住んでいる人間全員が「西武ファン」とは限らない。当時西武以外を応援するということは、こん
な場面に出会うことを覚悟しなければならなかったわけです。
悔しくて悔しくて、全部はがしてやろうかとか、歩いて帰るかとも考えたことも覚えています。社会人になっていなかったら、本当にそうしてしまっていたかもしれません。
今は思い出として語れますが、あの時の西武に対する口惜しさはやはり忘れられません。今は電車内に勝利の中吊りもなくなり、当時とはずいぶんと様子が変わりました。
長くなりましたが、またその西武にやられるところだけは見たくない。そんな思いで西武球場のレフトスタンド後方の通路を出口に向かって歩いていたときでした。
野茂投手からスイッチした近鉄赤堀投手が、現ロッテ監督の伊東捕手に投じた一球は何と私の歩いていたレフトスタンドめがけて飛んできて、レフトスタンドに飛び込むのを逆に近くで見る結果
となってしまったのです。
開幕戦という特別な一戦。ついさっきまで3-0でリードしていたのに、たった一球で3-4×と逆転する恐ろしさ。これもベースボールなんですよね。今でも開幕戦というとこの試合が取り上げられることがあるようですが、近鉄を応援していた人間にとっては一生忘れられない経験として残っていることも書き残しておきたいと思いました。
(拙著ブログ 2017年3月31日 プロ野球開幕に寄せて ~開幕戦や神宮球場の思い出 より)
一度でいいから「ノーヒットノーラン」を生で味わいたい、それが何と開幕戦で叶うかもしれない。それを演じているのは、翌年からメジャーへと行く、日本での最後の年の「野茂英雄」。8回が終わって、快挙まで「あと3人」だった試合でした。
後にメジャーリーグでは「2度」もの「ノーヒットノーラン」を達成した野茂投手。日本では一度も達成できずに、海を渡っていきました。
3.人生で何度の「観戦」をしたのか。勝手に
定義。
さきのブログでは、「1000試合」を超える観戦経験、と書いてありましたが、2015年、ベイスターズ山﨑康晃投手の入団をきっかけに観戦回数は飛躍的に増えています。母校亜大の試合もよく応援に行っていたことから、山﨑投手以外にも応援する選手は多く、今年は阪神の木浪選手や、オリックスの頓宮選手の活躍が嬉しいです。
昨年初め、私は勝手に今までの観戦試合数を「1800試合」と定義しました。この数には意味はないのですが、勝手に「今日は〇試合目の観戦」と決めたくなりました。
かつて映画館で見た映画の本数を数えたり(学生時代、試写会によく行きました。二番館など含め年間300本を超えた年がありました。)、読書冊数を数えたり(こちらも学生時代で年間168冊。多くが「赤川次郎」さんの作品で、徹夜で一気に読んでいました。)と同じようなもので、何となく「観戦試合数」を決めておきたいと考えたのでした。ちなみに、映画も読書もその後の数はさっぱりわかりません。
そして昨年観戦した試合は、オープン戦、公式戦、高校、大学、社会人、そして日本シリーズ含めて「75試合」でした。
コロナ禍ではありましたが、近年、観客数を制限していたことにより、ぎゅうぎゅうで見なくてよかったことや、私のように「撮影」をして、メガホンは使わないものにとっては、「快適」でもありました。
しかし、今年の「歓声」の戻ったスタジアムに行って見ると、やはり「球場はこうでなければ」なんて思ってるのですから、全くの天の邪鬼です。
今年も既に20試合、すべて足すと現在「1895試合」のワクワクとロマンを求めて、球場に足を運んでいたことになります。
4.過去の達成ペースを検証
昨年は、4月に佐々木朗希投手が、NPBでは何と28年振り、史上16人目となる「完全試合」が達成されたのはご存じの通りです。
私が初観戦をした1974年以降でも、1978年の阪急・今井雄太郎投手と1994年の巨人・槇原寛己投手のたった二人しか達成していなかった大偉業です。
しかしその前を見てみると、1950年の巨人・藤本英雄投手を第一号に、1950年代は5人、60年代にも5人、70年代は先ほどの今井投手を含め4人と、この頃は「2~3年に一人」が達成していた記録でもありました。
しかし80年代には達成無し、90年代に先ほどの槇原投手の「1回」が最後でした。昨年球場で若いファンと会話をする中で「『完全試合』という言葉を知りませんでした」との言葉を聞いたときは「無理もないわ」と思ったものです。余談ですが、その出会ったファンは、数年前の「クライマックスシリーズ」で巨人の菅野投手にヤクルトが「ノーヒットノーラン」を眼前で食らって、「あんなに悔しい試合はなかった」とも語ってくれました。
昨年は、私も大応援しているソフトバンクの東浜投手が5月に「ノーヒットノーラン」を達成すると、昨年は計4回も達成された年でもありました。東浜投手の快挙には、福岡に住む幼馴染に無理にお願いし、「西日本スポーツ」を買って送ってほしいと頼むと、合わせて「西日本新聞」まで一緒に送ってくれて、宝物になっています。こういう時はやはり「新聞紙」という「アナログ」な「もの」がいつまでも大事にできる「宝物」になります。
去年は本当にありがとうございました。この場をお借りして改めてお礼申し上げます。
さて過去の「ノーヒットノーラン」ですが、NPBでは公式戦で98回(うち16回はさきの「完全試合」を含みます)達成されており、私が観戦するようになった1974年以降だけでも、38回(うち「完全」3回)が達成されていて、一シーズン130~143試合が開催されていることから、私は既に14シーズンから15シーズン分はまるまる観戦している計算になりますが、この間、一度の「ノーヒットノーラン」に立ち会えていないのは、「運」がないのでしょうか?皆さまはご経験はありますか?
やはり「ノーヒットノーラン」もこの49年で38回に対し、それ以前は、戦前の1936年から1943年までに18回、戦後の1946年以降1940年代が3回、50年代は14回、60年代が15回、1970年から73年の4年で8回(すべて「完全試合」を含む)記録されているので、数打ちゃ当たるではありませんが、通い続けていれば、いつかはその場面に会えると思うのは、当時の経験からいけば当然だったのでしょう。
5.「公式記録員」さんの「率直な感想」に触
れる
そんな私をちょっとほっとさせてくれたコラムが昨年「NPB」のホームページに掲載されました。生業として「プロ野球」の試合に連日関わられるだけでなく、その「判断」が大記録の達成の有無を左右するお仕事をされているとなると、私たちファンとは立場が違うものの、どこか求めている「ロマン」は通じているのかな、と思わせてくれた文章です。
こちらは転載するわけに行きませんので、下記のリンクをクリックしてお読みいただけると幸いです。
【記録員コラム】ノーヒットノーランと公式記録員の不思議な縁 | NPB.jp 日本野球機構
このコラムを書かれた伊藤記録員をNPBのホームページで調べさせていただいたら、昨年まで「443試合」の出場をされておりました。これはコラムにもあった「メイン」での試合数であり、「サブ」や「ファーム」での試合数が含まれていないと思われます。今年「16年目」のシーズンを迎えられているということで、私の通算観戦試合数(私は推定ですが)に迫っていらつしゃるかもしれません。私も「ファーム」の試合も含め、よく足を運んでいたので、どこかの球場でお会いしていたかもしれませんし、今日もどこかの球場で、選手たちのプレーから目を離すことなく見続けていらっしゃることだと思います。
私にもそろそろ「その偉業と出逢う日」は訪れるのでしょうか?
6.「偉業」がまたも眼前から空しく消えた日
昨年4月17日(日)の「ZOZOマリンスタジアム」。ちょうど一週間前に「完全試合」を達成した千葉ロッテの佐々木朗希投手が予告先発されていた試合を観戦に行きました。
その前の週、「完全試合」を達成した試合も、妻を誘っていたのですが、我が家から千葉のスタジアムまでは片道で2時間弱かかること、その前日は埼玉の「ベルーナドーム」のナイターで「西武対ソフトバンク」戦を妻とともに観戦していたことから連戦はしんどいと思ったこと、そして何より毎年訪れていた秩父の羊山公園の「桜」をまだ見に行っていなかったことから、その日のニュースは秩父で携帯に流れてきた「プッシュ通知」で知ったことを思い出します。
「2匹目のドジョウ」はまさかないと思いつつ、私たち夫婦はそれまでの先発投手のローテーションから、佐々木投手の次の登板をこの日と推理。チケットを入手してこの日を待ちわびていました。
「完全試合」を達成した、次の試合の佐々木朗希投手です。
連続写真でご覧ください。
豪快なフォーム。見ているだけでも「舞って」いるように見えて惚れ惚れします。この日も「完全」が続いていきました。
「BIG BOSS」もなす術がないか?
対する日本ハムベンチでは円陣とともに、具体的攻略も指示されたか。
とにかくまずはランナーを出さなくてはなりません。
白熱の試合は8回へ。日本ハム、未だ一人のランナーも出ていません。しかし、対する上沢投手もロッテを無得点に抑えていて、両チーム無得点のままです。
8回の佐々木投手。
もう一段、ギアが上がったように見えました。
遂にこの8回もパーフェクトに抑え、大記録まで「あと3人」と言いたいところですが、ロッテに得点がないのでは延長戦に入ってしまい、いくら「9回をパーフェクト」に抑えても、試合が完結しない限り、「参考記録」に終わってしまいます。昨年も中日の大野雄大投手が、9回を「完全」に抑えながら味方の得点もなく延長戦へ突入。10回2死から初安打を浴びてしまい、大記録の達成を逃しています。9回27人を完全に抑えながら、歴代の偉業に名を連ねることができないのは、いかにも気の毒で仕方がなく、こうして忘れないように「記録」しておくほかできることがありません。
2試合連続「完全試合」などという記録は、今まであり得なかったとてつもない記録。私たちはその「歴史の目撃者」になれるのか、8回裏のロッテの攻撃を祈りながら見ていたのを覚えています。
期待も空しく、8回のロッテの攻撃も無得点に終わりました。すると「完全」のまま、佐々木朗希投手の交代がアナウンスされました。「なぜ・・・」。あと1イニングを抑え、最終回にロッテが1点さえ取れれば、前代未聞、史上初の「2試合連続完全試合」が達成できていたかもしれない・・・。ここでの交代の決断は、当時物議を醸しました。賛成派、反対派わかれる中でしたが、現地にいた私には「ファンの気持ちを無視したもの」というのが当時の正直な感想です。
抑えの益田投手にスイッチした後、ベンチの佐々木朗希投手もカメラがとらえていました。
昨シーズンで退団された当時の井口監督によると、その後「あの時の交代は、佐々木朗希投手からの申し出で、もういっぱいいっぱいだった」ということを後になって知りました。当時は自分の「決断」として、ここでの交代への波紋を止めていたようです。
9回表の益田投手は、ワイルドピッチによる振り逃げでランナーを許し、継投による「完全」も消えたものの後続を打ち取り、継投による「ノーヒットノーラン」は継続していました。
9回裏のロッテの攻撃も、2死満塁と攻めるも無得点に終わり、試合は「延長戦」へと突入。10回表は、今年先発で大活躍の西野投手が登場。しかしこの回先頭打者の日本ハム万波選手にソロホームランを打たれてしまい、ついに均衡は破れ、日本ハムにはノーヒットノーランも打ち破る値千金の一打となりました。
そしてその裏もロッテは得点できず、この試合、結局万波選手に打たれた「1安打」だけでロッテが敗れるという結果になったわけです。佐々木朗希投手が自ら降りたとは、なかなか発表しづらかったでしょう。
点差以上に「負けた」感の強い、重苦しい試合であったと同時に、「1800試合以上」の観戦を経て、初めて「8回を終わって完全」を味わえた試合でもありました。
7.これも「野球」の醍醐味。でも・・・。
野球を見ている醍醐味は、現場でいろいろ予想しながら、たいてい裏切られつつ、期待どおりになったりすることに「一喜一憂」すること。この日の試合もまさにその極みであったと言えます。
私が観戦するようになってから、「完全試合」や「ノーヒットノーラン」が率として減っているのはなぜでしょう?
これだけのよい投手がどんどん生まれてきているのに、です。
一つは、データが充実して攻略方法が増えていることがあるでしょう。
また、ほとんどが「人工芝」の球場となり打球が早まった分、深く守らざるを得ないことにより、「内野安打数」が決定的に増えていると思われます。これはそのデータを扱えない、一般のファンには調べようがありません。
さらに決定的なのは「球数」です。近年は判で押したように「100球」を超えると交代。これには正直、興ざめです。おかげで「V9時代」のジャイアンツの高田選手のように、ファールで粘って粘って、という戦法も増えました。結果先発投手が5回終了とともに変わってしまい「先発完投型投手」などという言葉は今や死語のようです。
加えて「中6日」の登板も常態化し、同じ投手が同じ曜日に投げ続けるということも多く、早くにチケットを購入している場合、早々に先発投手が予想でき、楽しさが減りました。
これだからオールドファンは頭が固いと言われそうですが、今までの経験から「消耗品」とも言われる「肩」を守るために導き出されている数字を「疑う」こともしてほしいのです。まるで「マニュアル」通りに「100球」「中6日」を全員にあてはめるのはどういうものか。前回記事にまとめたベイスターズの「バウアー投手」は、「中3日」でもよい、と本人が語っています。完投能力、という言葉がありましたが、まだ投げられる投手、もうへばる投手、故障明けの投手、それぞれの個性に応じた「球数」があってもいい。「バウアー投手」なら、「目標投球数」や「目標登板間隔」を設定すれば、それに合わせて調整してくれるんじゃないか、という期待も持っています。
そういった意味でも「バウアー投手」には注目しているのですが、報道からは単に「のんびり客席で観戦」という記事しか配信では見られず、なぜ「観客に混ざってみようと思ったのか?」「観客の気持ちになってみたかったのか?」「日本での初観戦の感想はどんなものだったのか」などなど本人に聞きたいことがいっぱいあるのですが、近年は「本人への取材」がされていない記事にしか出会えず、これも残念に思うことです。
話がそれましたが、私がこのブログでもよく使う表現として「ギアが一段上がる」という状態も、ピンチを迎えたピッチャーなら誰でもそうなるはず。その時の「1球」も他の「1球」も同じ「1球」として勘定していいものなのでしょうか?
また、「100球」に迫っているので、この回が最後だろうと自分で判断して、その回にその試合での「最速」の球を投げたという記録と出会うことも多いです。
2022年4月17日。私が経験し、思ったことは「100球時代」の今、「ノーヒットノーラン」はおろか「完全試合」を生で観ようなどということは、「夢のまた夢のまた夢」だということがわかったということでした。
何だか長く未練がましい「初恋」が、今ごろになって夢破れたような思いです。
ただ悪いことばかりではありませんでした。観戦に出かけるたびの「こだわり」が消えていったことにより、気持ちが軽くなったこと。そして野球以外、特に「ひとり旅」という新たな楽しみにも「視野」が広がった気がします。
8.佐々木朗希投手が見られる幸せ
私は、佐々木朗希投手が大好きです。大震災でお父様を亡くされている。お家までも失われた。小さなときにそれを経験している佐々木朗希投手には将来の夢も含めて「インタビュー」ができたら、どんなによいお話が聞けるだろうか、とも思います。岩手県に大きな縁を持った私にとって、余計気になっていた選手であり、とても応援したい選手です。
夢のような、まるで「アニメ」の世界のような「160キロ台」の剛速球を投げ続けてくれる佐々木朗希投手。私はこんなすごい投手を今まで見たことがありません。なので佐々木朗希投手が投げる試合はなるべく現地で応援したい。見ておきたい。
やがて他の投手と同じように、メジャーリーグに行ってしまうのでしょう。でも今の佐々木朗希投手は間違いなく「世界一」の投手と言えるでしょう。そんな選手をいま「日本」で見られることを幸せに思います。
「旅行」の記事でまとめたいものもまだあるのですが、もう少し野球の話題を続けたいと思います。
昨年は長くブログを中断していた関係で、前の話題が今さらながらに出てまいりますが、どうかお許しください。合わせて長い長い記事となりましたこと、お許しください。お付き合いをいただきまして誠にありがとうございました。