2025.11.20「私の古刹・名刹巡礼」第二番喜多院・第三番中院・仙波東照宮・川越八幡宮へ
前回の川越寺社巡りの続きである本日の「都内近郊秋色探し④「小江戸」川越寺社巡り その2」は、「私の古刹・名刹巡礼」と題して、私がライフワークとして行っている参拝の「第二番」「第三番」のお寺として、「小江戸川越」を訪問したときの模様をまとめます。※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 「百寺巡礼」。作家の五木寛之さんが二年間をかけて成し遂げた、全国の百の古刹・名刹の巡礼記です。それらは番組となり、本にもまとめられています。その足跡を追う私の旅が始まったのが2018年11月。題して「私の百寺巡礼」。一方、五木さんの「百寺」ではなくとも、日本中に「名刹」「古刹」は数多くあります。人々を多面的に救済し、現代人の心をも今なお癒し続けている「名刹」「古刹」。そんな、お寺の持つ魅力に引き寄せられ、それを公言することをはばかることない年齢にもたどり着くことができました。その参拝の記録も残しておきたい。そう思い立ち、今年スタートした「私の古刹・名刹巡礼」シリーズ。このシリーズはあくまで私が勝手に「古刹」「名刹」としてセレクトしたお寺であることをご了承いただけますようお願い申し上げます。※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※その「第一番」は7月にご紹介した東京・上野の「寛永寺」でした。『2025.7.20 「私の古刹・名刹巡礼第一番」猛暑の中「寛永寺」へ 蓮と風鈴の浄土絵図に酔う』「百寺巡礼」。作家の五木寛之さんが二年間をかけて成し遂げた、全国の百の古刹・名刹の巡礼記です。それらは番組となり、そして本にもまとめられています。その足跡を追…ameblo.jp「私の古刹・名刹巡礼シリーズ 第二番」「喜多院」 天台宗 星野山喜多院無量寿寺天長7年(830年)、淳和天皇の命により円仁(慈覚大師)が天台宗の教えを東国に広めるため、「無量寿寺」として創建したのが始まりとされる。その後、平将門の乱や比企の乱で衰退したが、永仁4年(1296年)、伏見天皇が天台宗川田谷泉福寺の中興三世であった尊海僧正に、勅願寺無量寿寺の再興を命じ、関東天台宗の本山とした。尊海はまず仏地院(中院)を再建し、天台の教えを広めるため、1301年(正安3年)に後伏見天皇から関東天台宗580余りの寺院すべての本山となる地位を授けられた。その後、仏蔵院(北院)や多聞院(南院)を建立し、後奈良天皇からは「星野山」(現在の山号)の勅額を賜った。しかし戦国時代、後北条氏と扇谷上杉氏の間で起きた「河越夜戦」を含む約10年にわたる戦乱の中、1537年(天文6年)に炎上し、寺の勢いも衰えていった。慶長4年(1599年)、徳川家から深く信頼されていた天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を「喜多院」に改めた。川越藩主で老中の酒井忠利は「喜多院」の再興に尽力し、慶長18年(1613年)、徳川秀忠の関東天台法度によって関東天台の総本山と定められ、500石の寺領を与えられた。さらに山号も、東の比叡山を意味する「東叡山」に改められ、一層の繁栄を迎えることとなった。なお、東叡山の山号はのちに上野寛永寺に移った。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵を除く伽藍が焼失したが、翌年、徳川家光の命により江戸城紅葉山御殿の一部が移築された。これが現在も残る客殿、書院、庫裏であり、それらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕府で老中となった堀田正盛は、喜多院や仙波東照宮再建の奉行を任され、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し、750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家の厚い保護を受けて隆盛した。お正月は「だるま市」で賑わう「川越大師」として親しまれる「喜多院」へと到着しました。「成田山川越別院」を出てすぐの場所です。「喜多院」の客殿・書院・庫裏らの室内は撮影禁止のため写真はありませんが、「家光公誕生の間」や「春日局化粧の間」を実際に見学することができました。「拝観料」400円を納めます。「紅葉山庭園」と呼ばれるお庭をメインに撮影しました。ご本堂である「慈恵堂(じえどう)」へと続く渡り廊下。この廊下を通っていくと「内陣」にてお参りが叶います。渡り廊下からの「多宝塔」です。渡って来た廊下を振り返って。外に出て「庫裏」越しの「紅葉山庭園」を。拝観券では、外に出てもう一か所、「五百羅漢」を見学できます。天明2年(1782)から、ちょうど今から200年前の文政8年(1825)の約40年間をかけ作られた、合計538体もの石像が鎮座しています。西方へと陽が沈む時間になってきました。今度明るい時間にまた来られたらと思います。「五百羅漢」のゾーンを後にします。ご本堂である「慈恵堂」の全景です。隣の少し高くなったお山にある「慈眼堂」です。グラデーションが美しく。ここで「喜多院」を後にします。「喜多院」に隣接する「仙波東照宮」へ。この日の脚の疲れがここで出てきましたが、夕方で急いでいたので頑張りました。「日光」「久能山」と並ぶ「日本三大東照宮」の一つに数えられる「仙波東照宮」。明治2年の神仏分離令により喜多院の管理を離れ、現在はこの後お参りする「川越八幡宮」の管理となっています。この地は童謡「あんたがたどこさ」の発祥の地であるという異説も唱えられているそうです。実際に唄われている歌詞は熊本弁ではなく完全な関東方言である、と古くから研究者の指摘が多く、熊本のことが触れられているだけで、熊本で生まれた童歌ではない、とする熊本の研究家も少なからずいらっしゃるとのことです。童謡研究家の太田信一郎氏の「童謡を訪ねて」によると、戊辰戦争に出兵した熊本人が川越市仙波山に駐屯した際の現地の子供たちとのやりとりが元になっているという説が唱えられています。薩長軍は彰義隊の残党である振武隊を追って川越城に進駐し、城に隣接する「仙波山」に駐屯。付近の子供たちが兵士にどこからきたのか尋ね、熊本藩出身の兵士が答える様子が歌詞に描かれているという異説です。熊本には船場川はあっても「船場山」や「仙波山」という地はないそうです。さらに「肥後どこさ 熊本さ」という問答は、肥後に不案内な関東だからあり得る会話で、官軍に帰順した川越藩の子供たちが立派な銃を所持している官軍兵士のご機嫌を取っている場面が唄われている、などの説があるとのことです。「仙波東照宮」は、「古狸」とも呼ばれた「徳川家康」を祀っていることや、肥後の地元住民同士が出身を聞きあうのは不自然で、熊本の船場から来た人に対して川越の子どもたちが「川越の仙波山にも狸がいる」と返答するほうが自然とみることなとが、この童謡の「熊本発祥説」の異説の根拠として挙げられているそうです。「仙波東照宮」を後にするとほどなく「南院遺跡」です。永禄年間(1558年 - 1570年)頃までは「北院・中院・南院」の3院が存在していましたが、寛永10年(1633年)に「中院」のあった場所に、先に訪れた「仙波東照宮」が建てられたため、この後にお参りする「中院」はさらに200m南方に移動。「南院」は明治の「廃仏毀釈」によって廃寺となりました。往時を偲び、思いを馳せる地に次々と出会える、私にとっては「ロマン」の街でもあります。「中院」へと到着。門が閉まっていなくてよかったです。お邪魔いたします。「私の古刹・名刹巡礼シリーズ 第三番」「中院」 天台宗 星野山中院無量寿寺平安時代、淳和天皇の勅許を受けて円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺仏地院と称した。鎌倉時代には尊海僧正によって再建され、日蓮も尊海僧正から恵心流の伝法灌頂を受けた。やがて東国580ヶ寺の本山として勅書を賜り、大いに繁栄した。さらに天台宗の学問所である仙波談義所が開かれ、関東八檀林の一つとして栄えた。天海大僧正が喜多院(北院)の住職になるまでは、「中院」が無量寿寺の中心的役割を担っていた。「ひっそりと佇む」という表現がぴったりな大好きな古刹です。「鐘楼門」脇のこちらの「枝垂桜」は春にも訪れました。未紹介でしたのでいずれまとめたいと思っております。「喜多院」に比べると訪れる方が少ない分、私が訪れる際はいつもゆっくりとお参り、散策が叶っています。「中院」を後にします。道すがら、見事な紅葉の「コキア」にも出会えました。この日の散策、最後の目的地の「川越八幡宮」へ。陽は傾き、実際はもっと真っ暗でした。「花手水」美しく。長元3年(1030年)「源頼信公」により、豊前国(大分県)の「宇佐八幡宮」からこの地に勧請されました。5年後の令和12年 (2030年)に創建1000年という節目を迎えます。境内には足腰の健康にご神徳があると言われる「民部稲荷神社」もあることから、地元川越の「東洋大学の陸上競技部」の皆さんも祈願に訪れていました。明治元年(1868)に秩父・三峰山の遥拝所として創建された「川越三峯神社」です。創建一千年祭の記念事業の一環として、遥拝所は新たに整備されたばかりでした。「川越宗像神社」も祀られています。そして境内に「聖徳太子さま」。神社でお会いできるとは思いませんでした。こちらは「ぐち聞きさま」。「一度に十人もの訴えを聞き分けた」といわれる太子の向かいには椅子も用意されていて、私も小声で「ぐち」を聞いていただきました。すっきりした気分でこの日の散策を終えることができました。実際は闇夜に包まれた参道を進み、この日の「秋色」を求めた参拝は終了です。帰ったら、久しぶりに「25000歩」を超えた歩数を記録していました。「二季」とも言われた2025年。木々たちはちゃんと「秋」の訪れを感じ、葉の色を変え、やがてその身より自ずから葉を落とします。そんな姿をもうしばらく追い続けたいと思います