ミラーレス一眼越しに、私が見た風景たち

ミラーレス一眼越しに、私が見た風景たち

~たゆたうはロマンか、センチメンタルか、メルヘンか

「夢」というのは、叶わないから「夢」なのだと思っていました。

今年は、初めてプロ野球を観戦してから「49年目」。私にとっては「50回目」のメモリアルイヤーでした。

 

そのことについては、今年の6月に詳しく書きましたので、下にその時の記事へのリンクを張らせていただきます。

 

 

 

いつの頃からか、「ノーヒットノーランを生観戦したい」という夢を持ってしまいました。

現在、両リーグの「優勝」も首位の球団でほぼ確定というくらい、2位との差が大きく離れてしまいましたが、やはり「優勝」のあの瞬間へと近づいていく「あと、何イニング」「あと何人」と迫ってくるときの「ワクワク感」は、その場にいれば何物にも変えられない経験です。

私も近年は何故か、応援しているチームとの対戦で相手側が歓喜に舞うシーンを見ることが多い気がします。

 

そんな「優勝」とは別の「あと一人」の興奮を味わえるのが「無安打無得点試合」すなわち「ノーヒットノーラン」です。

その瞬間に出会うのは、ほぼ不可能と思いつつも勘定してみると今年もこの日で「53回目」の観戦となっていて、やはり訪れるたびに「今日こそ」の思いを秘めながら、席に着いていました。

50回目のシーズン、勝手に昨年定義した観戦試合数に、この2シーズンで観戦した試合数を足すと、通算推定値「1928試合目」の観戦で達成した「悲願」でした。

 

「ノーヒットノーラン」は幾度かの「目前」まで迫った無念も含めて、やはり6月に記事にまとめましたので、下にその時のリンクを張らせていただきます。

 

 

 

2023年9月9日、土曜日。千葉の「ZOZOマリンスタジアム」で行われたゲーム。ずっとずっと夢見ていた「ノーヒットノーラン」が観戦できた試合となりました。

 

本日は写真の枚数もとても多くなってしまうことをどうかお許しください。

 

この日の幕開け。席に着いたとき、グラウンドにはたくさんの女の子たちが整列していました。日本最大級サバイバルオーディション番組「PRODUCE 101 JAPAN」の第3弾として、映像配信サービス「Lemino」で10月5日から配信開始となる「PRODUCE 101 JAPAN THE GIRLS」の練習生の皆さんでした。

 

人数の多さに客席もどよめいていました。

 

練習生を代表して櫻井美羽さんがセレモニアルピッチへ。

 

プレートより遠い位置からの投球。

 

始球式を撮影しているといつもそうなのですが、どのような投球だったのかを見ることができません。

 

全員で記念撮影をして。

 

外野後方へと去っていきました。

 

さて試合へ。この日のスタメンです。いつもながらの、海からの強い風が吹き抜けています。今日も「落ちる球」を武器にしている投手は、打席付近でさらなる変化が起きると言われている球場でどのようなドラマが起こるか。そんなことを一緒に観戦した妻にしゃべっていたそうです。自分では覚えていませんでしたが。

 

1回裏、山本投手マウンドへ。

 

まずはリラックス。

 

足元を入念に確かめて。この1回はわずか「7球」で3人の打者を打ち取る上々の立ち上がりでした。

 

2回表、打席に入った亜大の後輩の「頓宮選手」。

 

久しぶりに球場で拝見しましたが、かなり痩せたよう。夏バテじゃなければいいのですが。

 

ロッテ美馬投手の球を振り抜くと打球は右中間を破りました。

 

セカンドに到達。ロッテのショート藤岡選手は軽く祝福のタッチか。戦っている相手のチーム同士ですから祝福はおかしいと思われるでしょうが、この二人、高校も大学も同じ。藤岡選手が3学年上の先輩ですので、高校では卒業後に頓宮選手が入学したことになります。

 

この9月9日まで頓宮選手はパ・リーグの首位打者の座を守り続けていましたが、昨日9月10日の試合は4打数ノーヒットに終わってしまったため、ソフトバンクの「ギータ」こと柳田選手に打率を抜かれて2位となってしまいました。

シーズンの残りもあと1か月を切りました。チームの優勝とともに、自身初の快挙となる「首位打者」も諦めずにぜひ勝ち取ってほしいと願っております。

 

いつもながら「夕景」の美しいスタジアムです。

 

大学時代は強肩強打の捕手としてだけでなく、「俊足」も披露してくれた頓宮選手。今季はファースト定着でより打撃に集中できるようになったようですね。

 

さて「主役」へと戻ります。

 

連続写真で。

 

立ったままの姿勢から、いきなり投げるような独自のフォーム。

 

 

 

このフォームでこの日も150キロ台後半のストレートを連発するのですから驚きです。

 

2回もわずか「8球」。初回と合わせてわずか「15球」しか投じていないことから、ロッテの打者が追い込まれる前に打ってきているのがわかりました。

こんな少ない球数での立ち上がりも滅多に経験しないので、このいつもと違う感じから、妻に「今日はひょつとするかもよ」と言ったことは覚えています。妻はもちろん、言った私でさえまさか本当になるとは思っていませんでしたが。

 

回は進んで0対0で迎えた4回表。オリックス杉本選手の打席は一死1,2塁の先制のチャンス。

 

振り抜いた打球は逆風を切り裂いて左中間スタンド向かってまっしぐらです。

 

入りました!今季13号の特大の先制スリーランでした。

 

 

 

嬉しそうですね。

 

まずはホームベース付近で、走者だった二人に迎えられます。

 

そしてベンチでの祝福。

 

最後にお決まりの「ラオウ」のポーズです。

 

早いテンポで進んだゲームはあっという間に5回が終了。グラウンド整備で間があく間は応援イベントが。

ここまでオリックス山本投手は一人の走者も許していない「パーフェクト」続行中でした。期待も高まりつつゲームは後半へ。

 

すると6回裏、この回先頭のロッテの7番安田選手に対してストレートの四球を与えてしまい、「完全試合」が消滅。

 

すかさず集まった野手陣からは笑顔も見えていました。

 

続く打者にも、2球続けてボール球を投じると、ファーストの頓宮選手、すかさずマウンドへ駆け寄ります。さすが「捕手」をしていた選手ならでは、と感心しましたが、この二人は何たる偶然か「実家が隣同士」の幼馴染みであることも有名です。

 

この日、ロッテの最初の走者となった安田選手。ここでアウトになりでもしたら、反撃ムードに水を刺すだけに、大きなリードがとれない模様。

 

この日最初のセットポジションからの投球。

 

と言っても、ほとんど違いのないフォームです。

 

 

 

 

 

後続を打ち取り、ホッとした様子でベンチへと戻ります。

 

「ノーヒットノーラン」まで残る回は3回。上位打線で迎えるこの回が一つのヤマです。

 

ここまでの詳しい投球内容も、スタジアムにいて知ることができるのもこの球場の特長です。7回先頭打者を打ち取ったところでの68球、5三振はいかに打たせて捕ることに徹しているかが伝わってきます。

 

7回も3人で打ち取り、いよいよ残り2イニング。

 

8回表には、ロッテ東條投手の犠牲バント処理の一塁への送球が悪送球となりピンチが広がり、森選手の犠牲フライで、貴重な追加点が入りました。

 

8回の山本投手。

 

 

 

 

この終盤に来て、何とこの回は「三者三振」に打ち取り、快挙まで残り1回となりました。

 

私も8回終了までノーヒットノーランというのは、過去にわずか2回だけ経験があります。

 

今日の記事でリンクを張った先でも触れていますが、一つは1994年の開幕ゲーム「西武対近鉄」で野茂投手が記録したもの。この時は9回先頭の清原選手のチーム初安打から流れが変わり、西武はこの回満塁逆転ホームランでサヨナラ勝ちという劇的な幕切れとなりました。

 

もう一試合は昨年4月の「ロッテ佐々木朗希投手、完全試合のまま8回をもって降板」の試合でした。あと1イニングで「2試合連続完全試合」という前人未踏の大記録目前での降板に、私も心から落胆し、「人生においてもうノーヒットノーランを見られる機会は訪れることない」と諦めの境地を確立した試合でもありました。

 

最終回のオリックスの攻撃には、前の週に約一か月振りに復帰したロッテ澤村投手がマウンドに上がりました。

 

 

力強い投球フォーム。

 

球がバラつくこともなく、剛球で最終回のオリックス打線を1安打1奪三振無失点に抑え、味方のまずは「1本」を待ちます。

 

最終回のマウンドに向けて、ベンチ前で準備をする山本投手。

 

味方の攻撃が終わり、ベンチ前最後の一球を投じます。

 

変わらぬ足取りで最終回のマウンドへ。

 

上がりました。

 

さあ私も、より緊張してまいりました。

 

8回までの成績です。マダックス(=投球数100球未満で完封すること。13度の100球未満完封を達成したグレッグ・マダックスの名前が由来。)の達成も可能な投球数です。

 

最終回のマウンドに上がりました。この回先頭の田村選手は5球目を打ってライトフライ。

この時点で、私も推定値1928試合目の観戦にして、ノーヒット継続未体験のゾーンへと突入しました。

 

続く藤原選手も3球目を打ってセカンドゴロに。偉業達成まであと一人です。

 

最後のバッターとなってしまうのか、ベテランの荻野選手に投じた初球は何と「デッドボール」。この日ロッテの2回目のランナーとして出塁しますが、「ノーヒットノーラン」は継続中。

 

球場にいて気づいたことは、この最終回、ロッテが一人打ち取られるごとに席を立ち、球場を後にされる方がいらっしゃったことでした。熱く応援されていらっしゃる方にとっては、見たくもない場面であるんだということにも気づかされました。

 

最後のバッターはあろうことか藤岡選手。いつもは応援している場面なのですが、この日ばかりは偉業の前に複雑な私。

予測しうるいろんな結果が、私の頭の中を巡り、これが長い間待っていた「夢」の場面なのだと初めて実感しました。

 

カウント2-2からの6球目、鋭く振り抜いた打球はセカンドの正面へ。

 

全くのピンぼけで見づらくてごめんなさい。そのまま載せます。

途中から頓宮選手に代わって一塁の守備に就いていた山足選手が捕球した瞬間、山本由伸投手の「2年連続のノーヒットノーラン」が達成されました。

ウイニングボールを持って山本投手のもとへ走ります。

 

そしてボールを渡します。

 

若月捕手と熱い抱擁。

 

この日の打のヒーロー、杉本選手からまず洗礼が。

 

そしてまるで優勝が決まったかのよう。

 

 

 

ブルペンで待機していたリリーフ陣も駆けつけました。

 

ビジターにもかかわらず偉業を称える表示がされました。

 

ペットボトルがカラになったようです。

 

いつもの勝利時のようにベンチ前で首脳陣が選手たちを迎えます。

 

山本投手、頭ビショビショに。

 

そして「お隣さん」の頓宮選手が花束を持って登場。途中交代して買いに行ってた?(笑)

 

幼馴染みからの贈呈の花束を掲げ、ファンからの大声援に応えます。

 

ブルペン投手陣、なぜか「隊列」を組んでレフトポール際のブルペン方面へと戻ります。ほぼ年齢順に並んでる?

 

インタビューが始まりました。インタビュアーは何と千葉ロッテのリポーターの南隼人さんが登場です。かつてはベイスターズのハマスタでもスタジアムDJとして活躍された南さん。

相手チームであっても、この偉業達成のインタビュアーにはフリーアナでもある南さんならうってつけですね。

時まさしく「ラグビーW杯」の真っ最中ですが、こうした「ノーサイド」精神での「祝福」にも心が動かされました。

 

2年連続での達成は、戦前の1リーグ時代の「亀田忠投手」以来「82年振り」の達成であること。他にはその前に伝説の投手であり、投手最高峰の選手に与えられる賞にその名を残す「沢村栄治投手」しかおらず、史上3人目の偉業であることが、南さんから披露され、一層の拍手に包まれます。

 

さらには「史上100回目」のノーヒットノーラン達成というメモリアル付きだということも発表されます。

今年も、9回まで「ノーヒットノーラン」に抑えながら、味方の援護がなく延長戦に入ったため、「未遂」に終わってしまった中日の柳投手の例もありました。

同様のピッチングをしても援護点がなく、というのは投手の責任ではないので何とかならないものかとも思うところでもあります。

 

この偉業を報じた「日刊スポーツ」で6万5584試合目での「100回目」の「ノーヒットノーラン」達成だということを知りました。

つまりNPBでは約「6558試合に一回」の割合で「ノーヒットノーラン」が生まれていることになります。1シーズンが現在143試合ですので、1チーム当たり「45.8シーズンに1回」の割合となります。

 

私の推定値「1928試合」というのはまだまだ少ない方で、運がよかったようですが、観戦「50シーズン目」にしてこの場面と出会えたのは、まさに出現割合と一致しているのかなとも思いました。

 

インタビュアーが終わり、レフトスタンドのアリックスファンに向かい手を振ります。

 

そしてライトスタンドのロッテファンにも深々とお辞儀を。

 

ベンチ上のファンに手を振ります。

 

その後は報道陣の撮影会。ボードに映る数字をバックに、ということでしょうか「座って」のリクエストに応えます。

 

 

そしてグランドを後にしました。

 

「H」の文字が隠れてしまいましたが、「ノーヒットノーラン」のネット裏スコアボードです。

 

熱戦の行われたグランドです。

 

帰り際、オリックスファンの陣取る「レフトスタンド」に立ち寄りました。

 

いつまでも興奮冷めやらぬ様子。

 

この写真、一生の記念になるのでしょうね。

 

球場ができて30年以上が経過し、潮風を浴びつつ老朽化の対策が始まった「マリンスタジアム」。

この球場ができた頃、初めて観戦した試合が「日本」対当時世界最強のアマチュアと言われた「キューバ」とのゲームでした。

ほとんどの選手が後のメジャーリーガーとなっていった当時のキューバに対して、日本のエースは亜大の「小池秀郎投手」。野茂投手とともにドラフト会議で史上最多の8球団の1位指名を受けた左腕は、この球場で何とキューバを完封。怪我がなくそのままプロに行けていたなら、どんな大活躍を見せてくれていたのだろうと思います。

 

この日、私にとっての「50年越し」の悲願を叶えてくれたのもこの球場となりました。

 

思えば、もう2か月近く前のこと。シーズン終盤の熱い「首位攻防戦」となっていることを予測しつつ購入していたこの日のチケットでした。千葉以外のゲームはこの日すべてデーゲーム。9月初旬のデーゲームはきついから、そして土曜のナイターなら翌日も寝坊できるからという理由で、妻も大好きな「ハマスタ」での観戦を諦め、この日は私の案に合意してくれていました。

この前の日、山本投手の予告先発を知ると妻も「来年はメジャー行きだろうから、よおく見ておこう」とも。それがまさかこんな結果になるとは。

 

この日、ネット裏にはメジャー13球団のスカウトが集結していたそうです。その人たちの前で最高の「入団テスト」をもクリアしてみせたこの強心臓には頭が下がるばかりです。

 

W杯に続くサッカー日本代表のドイツ戦快勝、バスケットボールの大逆転勝利、ラグビーの快勝、最近の日本には国際的な場面での活躍のニュースだらけ。佐々木朗希投手もマウンドに帰ってきました。毎日希望溢れるニュースばかりなのが正直信じられません。頑張ってきた選手たちには失礼な言い方なのでしょうが。

 

この日の話に戻ります。2位のロッテもロッテファンも本当に悔しい一夜となったことかと思いますが、吉井監督は信じて起用したスタメンに代打を送ることもせず、またパントで内野安打を狙うなどの揺さぶりもなく正々堂々とした力勝負を演じてくれたのが嬉しかったです。

優勝をかけたチーム同士が、当然とは言え真剣に戦った上でのこの日の結果にも価値を見出しました。

 

そしてこの日は、私の「還暦」前、50代での最後の観戦試合となると思います。

私が永く追い続けた野球への「ロマン」が叶ったいま、まさに「暦」が一回りして、また気持ち新たに生きていくことができます。

 

あと、もう一つだけ。

49年前、私が父と後楽園球場で初めての野球観戦をしたとき、そのチケットは親戚のおじさんが用意してくれた会社の「年間予約席」でした。

今ではとても信じられないでしょうが、当時優勝経験の無かったヤクルトと広島。

後楽園の巨人戦もその「ヤクルトと広島戦なら希望の日がとれるよ」とのことで夏休みの最中1974年8月18日の巨人対ヤクルト戦が、私の野球観戦デビューでした。

 

その初観戦の時の思い出を詳細に書いたのが、下記のブログです。よろしければこちらもどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

あの日以来、いつの時代も私は野球とともに人生を歩んできました。その大きなきっかけをくれたそのおじさんが、先月お亡くなりになられたことをつい先日知りました。

がっちりしていたおじさん、大きな病気を克服後、「東海道」を徒歩で踏破したおじさん。私が社会人で大学院に行っていた20年ほど前、やはり親戚の葬式でお会いしたのが最後となってしまいました。その時は、論文提出の締め切りが近かったため、私もフラフラで列席していました。そんな私に「このお葬式のせいにするな、必ずやり遂げろ」と喝を入れてくれたのもおじさんでした。おかげで無事に論文をまとめることもでき卒業することができました。

そのおじさんも最後はは体重も30キロ台まで落ちていたとお聞きしました。

 

この日の「ノーヒットノーラン」という悲願に出会えたのは日程の「偶然」という不思議、そして「おじさん」が私にプレゼントしてくれたような気がしてなりません。

「おじさん」は亡くなりましたが、私の中ではあの日のおじさんが間違いなく生き続けています。「おじさん」どうか安らかにお眠りください。私は忘れません。

 

※  ※  ※  ※  ※  ※

 

ちょっとセンチメンタルになってしまったことはどうかお許しください。

 

いろいろ引っ掛かっていたものも吹っ切れ、ユーミンの「50周年」の頑張りを見て、背中を押されたような気持ちになり再開したブログから約1年になろうとしています。

 

相変わらず稚拙な文章と写真、内容にもかかわらずいつもお付き合いをいただいている皆々様にこの場をお借りして改めてお礼を申し上げます。「ありがとうございます」。

 

今月は還暦を迎えるにあたり、いろいろとしておきたいこともあるため、ブログのアップをお休みさせていただき、また月末を目途に再開したいと思っております。

日記代わりにその時に感じた気持ちも織り交ぜつつ、今後も続けていきたいと思っております。今後とも何卒宜しくお願い申し上げますパー

昨年の旅行の最終日です。

昨年7月の九州旅行のときもそうだったのですが、この日も本降りの雨でした。

そのせいもあり、この日はほとんど写真を撮影していませんでした。

 

最終日は一路、小樽へ。


到着するなり、「寿司屋通り」へ向かうもどこも満席。ようやく探した店で寿司にありつけたのは覚えているのですが、写真が残っていませんでした。

 

食後は、堺町通り商店街を散策。「ルタオ本店」へ。

整理券を受け取った後も、一時間近くかかったと思います。昔も今も変わらぬ人気ぶりです。

 

誕生月を兼ねた旅行なので・・・と言い訳をしつつ、この旅でも連日のスイーツを満喫。

 

長く待ってでも入りたかったのは、こちらの本店の階段を上っていったところにある展望室に行きたかったからでした。小樽の街から海まで見渡せる無料の展望室です。

 

「雪印パーラー」の際にも書きましたが2009年9月、妻と妻の妹と先輩「Yちゃん」との4人の「チーム熱量」はここで集合写真を撮っていました。そして私はこちらの隣にある「小樽オルゴール館本館」で写真が飾れるオルゴールを購入し、みんなにプレゼントしました。その一つは今も我が家に飾られていて、紐を引っ張ると「北の国から」がオルゴール音で流れます。

この日、私はその集合写真と同じ位置に立ってみました。

 

思えばその頃の私は、仕事で寝る時間も削られ精神的にもいっぱいいっぱいだったのでしょう。その渦中にいる時って、そんな自分を今のように客観的に見つめることなどできません。

そんな私に何か楽しいイベントを、ということできっと他の女子連がこの機会を作ってくれたのだということが、今になってしみじみわかります。

 

あの日、この柱を挟んでセルフタイマーで撮ったあの集合写真の「Yちゃん」が、いま我が家の仏壇の片隅に置かれ、毎朝夕のお勤めのたびに微笑んでくれています。

 

その「Yちゃん」、この旅行の日で約1年、そしてもうすぐ「三回忌」の日が近くなってきました。

「東日本大震災」を経験して、出会った永六輔さんの言葉。

「その人を忘れない限り、その人は生きている」。

かつてはそう信じるように思っていましたが、今は「生きている」ということが実感としてわかります。

 

その「小樽オルゴール館本館」前の「メルヘン交差点」のシンボルでもある蒸気の時計台。SLの発車を思わせる大きな蒸気音に驚きつつ、素敵なオルゴール音に癒され、かつて石原裕次郎もこよなく愛した北の港町の旅情を味わいました。

 

「小樽運河」へ戻った頃には雨も上がったかと思いきや・・・。

 

「涙雨」なのでしょうか、また降り出し。

 

「思い出は上書き保存」。あの日以来の小樽の街を心に刻みこみたいと思います。

 

傍らには、「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」の大ヒット曲「小樽のひとよ」の歌碑。周りを気にしながら、小さな声で熱唱しました。途中まででしたけど。小樽を後にしました。

 

札幌まで快速電車で戻り、ホテルに預けた荷物を受け取ります。

 

かつて「上野」駅にもたくさん見られた、特急列車名と乗車位置を示すボード。

 

「札幌」駅ともお別れをして、新千歳空港へと向かいます。

 

そして、空港ビルで旅行最後の食事も、「けやき」の味噌ラーメンを。

「ラーメンに始まり、ラーメンに終わる」札幌旅行は以上です。

これにて、昨年にお出かけした未掲載の旅行記が無くなりました。

 

今年出かけた旅行記も追々まとめていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

前回のゲーム編に続いて、今回はこちら。


今や、各球団とも試合前のこちらのセレモニーは定番ですね。

今回は北の大地でのゲーム、本拠地でしか見られない「ファイターズガールズ」さんの頑張りに敬意を表し、その特集としました。

 

まずは試合開始前のパフォーマンスから。

 

 

 

 

 

そしてイニング間のパフォーマンスはスタンドのお客さんに向かって。

 

 

 

 

「バズーカ砲」でファンへのプレゼントを。

 

 

そして昨年、大ブレークした「キツネダンス」です。観戦のきっかけの半分はこちらが見たかったというのが正直な気持ちです。

 

何とも耳に残るミュージックと、癖になりそうな振付け。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、「後楽園球場」が本拠地だった時代から続く鉄板ソング「YMCA」へ。

 

「Y!」

 

 

「M!」

 

「C!」

 

「A!」

 

もう一回「Y!」

 

「M!」

 

「C!」

 

「A!」

 

5回のグラウンド整備の際、「トンボ」をかけていたスタッフも一緒に、文字の時だけは「トンボ」を頭上高く掲げ、パフォーマンスをしていた「後楽園」時代が懐かしくて溜まりません。

 

別のイニング間の「パフォーマンス」。

 

 

 

試合とともに、話題の「キツネダンス」を見られたことは一生の思い出となりました。

 

たくさんの笑顔をありがとうございました。

 

旅は3日目へと続きますパー

昨年の札幌旅行のお話に戻ります。

 

今年、その本拠地を移転した「北海道日本ハムファイターズ」

「札幌ドーム」での主催試合の開催は昨シーズンいっぱいでした。2004年の北海道移転以来、年月は流れましたが、「札幌ドーム」での生観戦というのは一度も叶えていなかったことでした。

 

まだ「札幌ドーム」ができて、それほど月日が経っていなかったときと記憶しておりますが、公式戦を開催していない日に行われていた「ドームツアー」には参加したことがありました。野球場内に場内を見渡せる展望スペースがあったり、サッカー開催のために「天然芝」のグランドがすっぽりドーム内に納めることができるなどのドーム利用方法について知り、「東京ドーム」を皮切りに全国に広がっていった「ドームスタジアム」の最新鋭の姿に驚かされたことを覚えております。

 

昨シーズンも大詰めとなってきた昨年9月、ようやく「札幌ドーム」での観戦を叶えることができました。対戦相手は「千葉ロッテマリーンズ」です。

 

この日は「北海道日本ハムファイターズ」の輝かしいレジェンドたちが試合前のセレモニーで集結する日でもありました。

 

ライトのポジションに就いたのは、東京五輪で日本チームを金メダルに導いた元監督「稲葉篤紀さん」

 

センターには、昨年は「BIG BOSS」の愛称で話題をさらった新庄剛志監督。

 

レフトには、いつも明るい「森本稀哲」現コーチ。

 

センター付近に集合し、おなじみのポーズでスタジアムを盛り上げます。

 

ピッチャーには、「ヒルマン」元監督が登場。

 

北海道に根ざしてから20年近くの歳月が流れ、その間にも北の大地に「日本一」の栄光をもたらした「ファイターズ」のレジェンドたち大集合でした。

 

「ファイターズ」の先発投手は、「伊藤大海」投手。

 

まずは連続写真で。

 

 

 

 

美しいフォームです。

 

試合は2回裏、5番の「清宮選手」のソロホームランでファイターズが先制です。

 

私が見に行った試合では、清宮選手のホームランをよく見る気がします。

 

昨季17号となる嬉しい一発です。出迎える「近藤選手」の笑顔も懐かしいです。

 

守備に就いた際、ファンからの声援に応える「清宮選手」です。

 

6回の「今川優馬選手」。元ベイスターズの須田投手らとともに、社会人野球の最高峰「都市対抗野球」で、「JFE東日本」の一員として日本一を勝ち取った栄光の戦士。当時から試合中の笑顔も印象的で、夫婦共々応援している選手の一人です。

 

豪快なスイング!放たれた一打はスタンド目がけて一直線です!

「入ったぁ!」。

 

本当に嬉しそうで、応援している方にはたまらない笑顔です。

昨季、2年目で初の二けたに載せる「10号」のホームランでした。しかしこれが昨年最後のホームランであり、今年は出番が減っていることもあり、以来一軍でのホームランが出ていません。

 

また、満面の笑みかうれし涙となるかわかりませんが、「会心の一発」とその笑顔、期待しています。

 

続く「中島卓也」選手は四球を選んで出塁。

 

盛んに次の塁を狙う様子を見せ、ピッチャーを揺さぶります。

 

さあ、走るか。

 

「走った!」。

 

打者の「上川畑」選手がレフト前へと弾き返しました。

 

中島選手にフォーカスを合わせていたので分からなかったのですが、打球の行方を見てスタートしていたようです。

 

 

 

 

 

 

悠々と2塁へ到着でした。

 

今年は最終回の抑えのエースとして活躍の、千葉ロッテ「益田投手」。

 

昨年のこの試合では7回に登場。満塁のピンチを招くも無失点で切り抜けました。

 

この試合、ゲームの写真はあまり撮っていませんでした。

 

試合は5対4でファイターズが9回サヨナラ勝ちを収めました。

前年の函館での観戦に続いて、遂に叶った「札幌ドーム」での観戦は好ゲームとなり、大満足の一日となりました。

 

次回は、このゲームで撮影した「番外編」へと続きますパー

昨年の札幌旅行の様子を書いておりましたが、昨日は大手百貨店として61年振りとなる「そごう・西武労組」によるストライキの現場に出会ったため、その様子をカメラに納めてまいりました。

 

本日は、旅行記を中断してそちらの記事をアップいたします。

 

昨日は通院の日でした。病院と昼食を終え、乗換駅の池袋に戻りました。

前日からの報道で聞いてはいたものの、やはり閉まっている姿を見ると、幼い頃から一番慣れ親しんでいるデパートだけに、今後どうなってしまうのか不安な気持ちになりました。

 

このストの最中にもかかわらず、経営陣は取締役会で売却の決議をしたということが、携帯のニュースでもお昼ごろに流れました。赤字を放っておくわけにはいかないものの、組合員に今後の雇用や事業の継続について説明のないままの売却報道には、理不尽さを感じています。

 

かつて鉄道でのストライキが春闘で毎年の恒例行事のように実施されていた頃も「西武鉄道」だけはストライキがなく、鉄道が止まることがなく、ここ池袋駅では、かつての国鉄への乗り換えができなかった人々の長蛇の列を空撮で報道していたことが思い出されます。

実際、私の学生時代には鉄道ストが予定されているので休校になった日があったように記憶しております。

 

大規模百貨店では、60年を超えてストライキがなされていなかったということは、労使の話し合いがよくできていたということでしょうか。かつての百貨店は週に一度の定休日があり、閉店時間も18時くらいだったと記憶しています。つまり仕事帰りではもう閉まっていた。それが定休日もなく、閉店時間も大幅に伸びてくれたおかげで、社会人時代はどれだけ便利に利用させていただいたことか。そんなふうに百貨店で働く方々の労働環境もこの半世紀では大きく変わっているわけなのですが、ストがなかったといのは驚きでした。

 

日本国憲法にも定められている「団体行動権」。若い方々が「初めて見た」とニュースでコメントされているのを拝見しましたが、私にとってもデパートのストは、初めて見たことになります。

 

貼り紙は至るところにありました。

 

「西武」と言えば、かつて堤義明氏による「鉄道グループ」と、兄の堤清二氏による流通の「セゾングループ」の勢いはとどまるところを知らないのかと思っていました。

 

グループは違えども、「西武ライオンズ」が優勝を飾ると「大バーゲンセール」が始まるわけで、西武百貨店だけでなく、スーパーの「西友」も含め、一日中、松崎しげるさんの熱唱する球団歌「地平を駆ける獅子を見た」がエンドレスでかかっていた店内の熱気の思い出は、今思うと百貨店隆盛の頂点を極めていた姿でした。

 

西武池袋駅地下改札から東京メトロ有楽町線方面に続く、百貨店入口前の柱はすべてが「電光」化されていたことにも改めて気づきました。

そのすべてに「全館臨時閉館」を知らせる表示がされている様子は異様でした。

 

そしてこれは午後1時半くらいだったと思います。百貨店前の地下道にこれほど人がいないのは終電近くの時間でなければあり得ない光景でもあります。

 

余談ですが1988年10月19日、同級生の近鉄の阿波野投手を応援に川崎球場に駆け付けた帰り道、負けずして優勝を逸し、西武のリーグ優勝が決まったあの日、この地下道ではこれらの柱のすべてに「西武ライオンズ優勝おめでとう」のポスターが貼られていて、打ちひしがれての帰り道、ますますがっかりしながら、西武鉄道に乗って帰らざるを得ない自分は一人、くしゃくしゃになって歩いたことを思い出していました。

 

こちらも地下通路。

 

こちらは一階。奥は西武池袋線の改札です。

 

明治通り沿いの外へと出ました。巨大なシャッターが昼間閉まっているのは異様に感じます。

 

この通り沿いにあり、百貨店と建物の内部でつながっているこちらのドラッグストアも閉まっています。

 

商品の納入口ももちろん閉鎖。右の緑の階段は4階まで続いていて「まつりの広場」という広場へと続きます。この広場では、サッカーの王様ペレに直接指導を受けたり、この階段では始発に乗って開店までの5時間近く、デビュー間もない頃のサザンオールスターズの「田園コロシアム」ライブのチケットを「赤木屋プレイガイド」で購入するために並んだ古い古い思い出が一瞬にして蘇ってきます。

 

かつてはない本はないとも言われた「リブロ」もここにありました。

昔は上層階のいくつかのフロアに分かれて展開していて、角川映画ブームの真っ最中、中学時代の友人とともに今年お亡くなりになられた「森村誠一」氏のサイン会に行ったことを思い出します。

やはりここも明治通りを挟んで「ジュンク堂書店」が東京に進出。いま建て替えのための工事中の神保町の「三省堂書店本店」に行かずとも、池袋ではたいていの本を探すことができるのは嬉しい限り。このように街の「文化」が形成されていくことを実感します。

 

「リブロ」が下層階に移った後も、レコードなら無いものはないのではと思える品揃えの「WAVE」。TULIPの財津和夫氏がソロデビューしたときに、シングルレコードのジャケットにサインをもらいました。

 

私にとっての文化の集積地。書き出したら思い出だらけです。

 

パーキングもシャッターを下ろしています。

 

大きなパーキングなので、昨日は駐車場所を探すのに苦労された方もいらっしゃったのではないかと思います。

 

閉まっていても、猛暑の中それを知らせるために制服のまま立っていらっしゃる姿に頭が下がります。

 

明治通りから中に入ったこちらの入口にも報道の方がいらっしゃいます。

 

こちらはかつては「リブロ」、現在は三省堂書店池袋本店の入口でもあり、夜、百貨店の閉店後も営業するなど、中では百貨店とつながっていながら、百貨店とは区切られているので営業しているのではないかと思い訪れたのですが、昨日は「全館」が閉館ということで、書店も臨時休業となっていました。

 

程なく報道陣に動きがありました。つい反応してしまうのは、昔の名残りです。

 

すると入口に車が横付けとなりました。誰かが乗り込んだのですが、この時はどなたかわかりませんでした。

 

帰ってから報道を確認したら、取締役会の後に西武を訪ねた、「セブン&アイの井阪隆一社長」でした。

 

これが最後の西武池袋店への訪問ということになるのでしょうか。

 

来た道を戻り、明治通り沿いにパルコ方面へと行くと沢山の人が集まっていました。

 

のぼりを持っていらっしゃる方や・・・。

 

横断幕を持ち、道行く人々にアピールをされる方。帰って報道を確認しましたら、「ヨドバシ」はここの、デパートの一番北側にあたるこのあたりの位置の、何フロアーかが割り当てられる予定になっている、と報じているものを見ました。

 

池袋の北口の小さな店舗から出発した「ビックカメラ」。カメラ好きの私にとっては、新宿まで行かなくてもカメラが手に取れたり、カメラ用品が手に入るのですから開店したときはどれだけ嬉しかったことか。しかし当初はまだまだ店が小さかったので、すべての用品が揃っているわけではありませんでした。

何しろ新宿には「ヨドバシ」のみならず、カメラの「さくらや」まであったわけですから、「カメラ=新宿」みたいなイメージを、「ビックカメラ」の発展により払拭しただけでなく、今や全国展開のお店まで発展させたのは、当時思いもしなかったことです。今でも「カメラ」の名を店名に残すものの、一体カメラは売り上げの中のどのくらいの比率なのでしょうか。

 

「ヨドバシ」発祥の新宿に「ビック」が出店して以来、月日は流れましたが、いよいよ「ビック」発祥の地に「ヨドバシ」が開かれる日が現実となったようです。

フロアが「ヨドバシ」の進出により、西武のフロアは減ることになります。オーナーが変われども、その雇用はしっかり守ってほしい。

西武池袋本店を始め、全国の西武百貨店が今日まで愛されてきている理由を踏まえて、しっかりその文化を引き継いだ店づくりがされることを、一利用者ではありますが、半世紀にわたるファンとして切に願っております。

 

街頭にはOBの方も加わってアピール。

 

現在「Louis Vuitton」が入っている部分も昨日は休業。こちらの前でもビラを配っています。ここも「ヨドバシ」になってしまったりするのでしょうか。としたらば、かなり雰囲気は変わってきます。

 

その隣は「パルコ」。こちらはいつもと変わらず。明治通りを挟んで反対側には「H&M」のビルもできたので、そのロゴが扉に映り込んでいました。

 

その「パルコ」前から北の方にカメラを向けると、右に旧三越池袋店を居抜きで店を構える「ヤマダ電機(LABI)」。道を挟んだ斜め向かいが「ビックカメラ」の池袋本店です。この狭い範囲に、家電量販店が集中することになります。

 

スト中の皆さんに応援していることを伝え、私も一度、買い物のためにこの場所を離れました。

 

一時間ほど後に帰り道でまたこちらを通ります。蒸し暑さの中、長時間立ち続けられている皆さんの体調も心配になります。

 

とその時、またもやカメラに囲まれた方がこちらに歩いてきました。

 

そごう・西武労働組合の「寺岡泰博委員長」でした。

 

多くの支援に感謝の意が伝えられました。

 

そして寺岡委員長から、ストの経緯とこの日の街頭での活動を終了することの説明がありました。

 

報道陣の周りにも沢山の人々が集まり見つめます。

 

労働者の結束するこの姿・願いが、新しい経営者にも届くことを願うばかりです。

 

撤収となったと思いきや、報道陣は一斉に壁際に動きました。私もこれだけのスピードでの動きを経験するのは平成初期以来だったので、ちょっとびっくり。

 

この場で寺岡委員長の囲み取材が始まりました。報道のお邪魔にならないように一番後ろから。

 

腕を目いっぱいに伸ばして撮らせていただいたそのお顔は、決して怒らず、淡々と組合の主張を、「質問者」の目を見てお答えになる接客のプロのお姿を見ることができました。

 

報道では専ら、現在の西武の資産価値ばかりが報道されているように感じますが、ここや全国の百貨店を始め、店員として働かれている皆さんの「接客力」の資産価値を忘れてはならないと感じました。

 

昨日は、何故か行く先ごとにいらんな場面を目撃することとなり不思議な日でした。労働者の権利を勇気を持って行使した皆さまの希望が叶い、新しい「池袋の顔」を築かれることを陰ながら応援しております。

 

昨日のデパ地下は「東武百貨店」へ。以前「ニトリ」が入っていた広大なフロアには何と100円ショップ「DAISO」が入りました。その品揃えには圧倒されます。デパートは時代に合わせてどんどん変わることを実感します。

ちなみに「ニトリ」は、東急ハンズが撤退した「サンシャイン60」への入口隣のビルに入っております。

 

最後にこの日配られていた、A5判サイズのビラです。

 

裏面には経緯が簡潔にまとめられていました。

 

かつて仕事で何度か宿泊をした島根県松江駅横の「一畑百貨店」がクローズとなり、県内唯一の百貨店がやがて幕を閉じるということも最近知りました。

松江に行ったときは、そのデパ地下を利用したり、出雲そばの「一福」さんで食べることが楽しみでした。また催事場では元首相の「細川護熙」さんの陶芸展が開かれていて、それを知らずに入ったトイレでばったりお会いしたときは本当にびっくりしました。

 

 

百貨店の思い出って、こんな風にその名を聞いたり、その写真を見るだけでいくつも蘇ってきます。

家電量販店に思い出が無い訳ではありませんが、百貨店のような多岐にわたる思い出は浮かんできません。この違いが報道の中で再三使用された「文化」なのでしょう。

 

昨日もお店は閉まっていても「SEIBU」の灯は灯っていたことに気づきました。この灯がどうかずっと見られますように。

昨年の札幌旅行の続きです。

 

旅の二日目。まず訪れたのは「雪印パーラー」でした。

かつて訪れたときと店のある場所が変わっていました。

私は「雪印パーラー」限定の「Snow Royal」を。濃厚なバニラは、まさにアイスの王道でした。

 

妻はパフェを。

この店には忘れられない思い出があります。2009年、妻と妻の妹と会社の先輩Yちゃんとの変則の組み合わせの4人旅行でここ札幌を訪れました。名付けて「チーム熱量」。思いっきり食べて楽しもうという「女子旅」のチームに加えてもらいました。

この「雪印パーラー」では高さが50~60センチくらいはあったであろう一つの「ジャンボパフェ」に4人で挑戦。周りのお客さんの注目を浴びつつも、崩れかけるパフェをキャーキャー言いながら完食したことが昨日のことのようです。

Yちゃんに2度と会えなくなってもうすぐ2年となりますが、私たち夫婦の心の中では、いつもYちゃんは生きています。

 

店を出て、前日も訪れた「時計台」を経由して地下鉄へ。

 

「円山公園」駅で下車。公園内を進みます。「円山原始林」へ。

 

少し地下鉄で足を伸ばしただけで、この大自然に浸れる。北海道の魅力でした。

 

木道も整備されていて歩きやすいです。

 

まだ夏の名残りをわずかに残す太陽も、木々が直射から守ってくれました。

 

倒木した木もそのままに。かつてのこの地の姿をそのままに見ることができました。

 

進んでいくと「円山動物園」に出ました。時間があればゆっくりしたいところでした。

 

道を挟んで反対側に、歴史を感じる球場。

 

「札幌市円山球場」です。昨年は野球伝来150年を記念した「聖地・名所150選」を巡るデジタルスタンプラリーが行われていました。札幌では4か所を巡ることができ、全国で52か所を巡ることができました。

 

かつて、7月上旬の平日、デーゲームで行われていた巨人主催の3連戦「札幌シリーズ」の舞台となっていた球場。1988年には巨人の吉村選手と栄村選手が左中間の打球を追って激しく激突。吉村選手は選手生命を脅かす重症を足に負いつつ、1年2か月かかって復活してきた勇姿が忘れられません。

 

この日はちょうど「第56回全国ろうあ者体育大会in北海道」の野球競技が行われていて、観戦してもよいとのことでしたのでスタンドへと入ることができました。

 

札幌ドームができたあとも、管理され続けていたんですね。今、東京でも「神宮第二球場」が取り壊しの真っ最中。昭和の香りを残したスタジアムがどんどん無くなっています。

 

スタンドへ。広いグランドでした。あの左中間で激突した二人の選手の姿がどうしても重なってしまいます。外野席の中に樹が生えているのもいいですね。まさに「野」球場です。

 

こちらライト側方面。昨夜訪れた藻岩山の方向と思われます。

全国大会ゆえ、高いレベルでの熱戦。観客は、チーム関係者の方ばかりでした。

全力プレーに思わず、いつもよりオーバーに手を叩いて、選手の皆さんの健闘を称えました。みんな笑顔でとても爽やかな気持ちになれたことを今も思い出します。スポーツっていいですね。

 

一塁側スタンドの最上段まで上るとその先に見えたのは「大倉山ジャンプ競技場」でした。もの凄い傾斜です。

もう51年にもなるんですね。「日の丸飛行隊」と呼ばれた3人が札幌五輪の表彰台を独占したあの熱狂から。

妻は今年、社員旅行がありここを訪れました。私は未だ訪ねる機会に恵まれず、いつか必ず訪れたい場所であります。

 

球場を後にします。関係者の皆さま方、ありがとうございました。

 

「北海道神宮」へ。

 

参道を進みます。

 

丁度、神前結婚式が行われていました。

 

この日からもうすぐ一年ですね。どうかお幸せに!

 

神門をくぐります。

 

それはそれは立派なご本殿でした。参拝します。

 

初めての「円山公園」。思わず野球のゲームまで見られて、大自然に包まれてリフレッシュできました。

この後、公園では「リス」にも会えたのですが、あまりのすばしっこさに全く写真に収めることができませんでした。

次回は動物園も含めた旅程にしたいと思いました。

 

初秋の札幌旅行は続きますパー

昨年の未紹介旅行記のラストとなります。

 

9月は私の誕生月ということもあり、それを兼ねて出かけた先は数年ぶりの「札幌」でした。

今回の旅行では、「まだ訪ねていない札幌」を中心に回ることにしました。

 

写真のサイズが途中まで、縦が短いままで記録されていました。

お許しください。

 

新千歳空港に着くなり、最初に取った行動が「塩ラーメン」。巨大な空港ビルを散策していて見つけたラーメン屋街の中に、函館名物「あじさい」の文字を見て、躊躇なく入ってしまいました。

それは、私たちの「食い倒れ旅」の幕開けでした。

 

ホテルに荷物を置いて、近くの「時計台」へ。

「三大がっかり名所」などと揶揄する方もいらっしゃいますが、「恋の町札幌」を訪れたなら、やはり寄らずにはいられません。

時計の針は「正午」を指していました。

 

「大通公園」へ。テレビ塔の時計は12時15分。

 

広い公園内では、秋の食のフェスティバルが開かれていました。

串に刺さった「いちご大福」を。血糖値が下がる暇がありません。

 

地下鉄に乗って向かったのはこちらの建物。

 

「白い恋人パーク」です。以前ならビール園に直行でしたが、お酒をあまり飲まなくなった代わりに、甘いものの量が増えました。まあ誕生月旅行ということで。

 

隣には綺麗に整備されたグラウンド。こんなに近くで練習が見られるんですね。

 

Jリーグ「コンサドーレ札幌」の練習場でした。

 

「白い恋人パーク」の周りや中は花園でした。

 

北海道に来たことを実感します。

 

秋へと装いを変えている真っ最中でした。

 

 

林檎もたわわに実っていました。

 

 

「アナベル」ですね。アジサイまで見られるとは思いませんでした。

 

 

館内で一休み。ハロウィン仕様のパフェとチョコレートドリンク。

 

ここから通常のサイズに写真が戻りました。

 

東京より一か月は早く秋のバラが見られました。

 

雪国ならではの消火栓。

 

この後、一度ホテルに戻りチェックイン。

 

夜の観光へと繰り出します。「藻岩山」のロープウェイへ。

 

30分ほど並んだでしょうか、ようやく山頂へ。長袖シャツ一枚では寒くて、薄手のジャンパーをすぐ着込んだことを覚えています。

 

眼下は「光の海」でした。

 

地平線(?)まで続く光の宝石たちに感動しました。

 

寒さに耐えかねて早々に下山へと向かいました。昼間との温度差がある上に、山頂を吹く風はもうすっかり「秋」でした。

 

いつか「大倉山」からの風景も見てみたいな。

 

旅は2日目へと続きますパー

昨年の夏の旅行記、最終日となりました。


この日も雨でした。前夜からの雨もあり、水かさが増している渡月橋付近。

 

上流からものすごい水流で流れていました。

 

この日は早々にこちらへ。嵐山の「よしむら」さんへ。

 

「蕎麦の実のサラダ」です。

 

ちりめんのかかったご飯。

 

そして絶品の手打ちそば。思えば数年前、こちらの嵐山本店で出会ったこの蕎麦から、こちらのお店の五条店にも通うようになりました。

 

窓に映りこんだ電灯も幻想的。嵐山らしいよい雰囲気のお店。味だけでなく、接客の素晴らしさもこの店の良さ。そして観光地らしからぬと言ったら失礼かもしれませんが、リーズナブルな価格設定も嬉しいです。

 

食後は「竹林の小径」へ。天候のせいもあるのかもしれませんが、一年前はすいてましたね。

今年はもうこの風景はないのではないかと想像しています。

 

JR山陰本線の踏切。こちらの線路の石の部分まで出て記念撮影をして、お叱りを受けた80年代を代表するアイドルがかつていらっしゃいました。

 

目の前を猛スピードで駆け抜けていきます。

 

「野宮神社」へお参りします。

 

こちらは境内の「苔」が見事です。枯山水のお庭。奥の橋は「渡月橋」を表しているそう。

 

鳥居の赤と深緑。

 

「竹林の小径」をさらに進みます。

 

竹の先端には、先ほどまでの雨の水滴がたっぷりと着いているはずなのですが・・・。

 

いつもは竹たちが囁きを奏でてくれる風が、この日は吹くことを遠慮してくれたのか、雨露を下に落とすことなく静寂の中を行くことができました。

 

前夜は雨粒にとても苦労しましたが、この日は優しく静かに迎えてくれた「竹林」。「茅の輪」や「鳥居」を通るがごとく、何とも浄化されるような気分に浸れる大好きな場所です。

 

一足早い秋も感じつつ。

 

「小倉池」へ。真夏は初めてです。こんなに蓮で埋め尽くされるとは知りませんでした。

 

雨露に光る「タチアオイ」。

 

午後でしたので花は閉じているものがほとんどでした。

 

そんな中でも開いている蓮にも会えました。

 

 

 

嵯峨野路を進みます。

 

「二尊院」へ。

 

夏の「紅葉の馬場」です。

 

こちらのお寺は、いつもゆっくりと参拝できるのも大好きな理由の一つ。

 

私が「百寺巡礼」を始めるきっかけとなった、五木寛之さんが歩いたとても味わいのある階段です。

 

小倉山の麓の大自然に抱かれた「二尊院」は、まわりに民家もないことから可能となるのでしょうが、京都で参拝者が「鐘」わ撞くことが許されているお寺に意外と出会えません。

心を込めて、この旅が叶えられたこと、また来られたことに感謝しつつ一打。大鐘には「忘己利他」の文字です。

 

近年、こちらの「花手水」にも力を入れられているのがわかります。

 

 

「二尊」の仏さまとともに、季節の花々が参拝者を迎えてくださるのが嬉しいお寺。

 

これで春夏秋冬、それぞれの季節の「二尊院」の参拝が叶いました。

 

旅の間の時間というのは、いつもあっという間に過ぎていきます。お盆の時期の古都を初めて楽しんだ、昨年の夏でした。

 

旅の最後は、京都駅地下街「Porta」の「ようじやCafe」で涼を。こういうのは「ひとり旅」ではなかなか勇気がいるもので、妻と一緒のときに寄らせていただきました。

 

途中、今月はコロナり患のため旅行記が長く中断いたしましたが、お付き合いをいただきありがとうございました。

昨年の夏の思い出です。

この夜は「五山の送り火」。京都が大好きだった父も、何度かこの日を京都で過ごしていて、その混雑具合や「宿泊も来年の分を予約して帰ってきたよ」などという言葉を昔から聞かされていたので、このご先祖様を送る伝統行事はよほどの覚悟を持って行かなくてはならない、と思っていました。

 

コロナ禍においては「大」の文字もその端の文字部分しか点火が叶わずの経験を経つつ、伝統行事の「灯」を脈々と守り続けてきた京都の五山。昨夏はそのすべての火床に点火がされるとあり、この旅が企画されました。

 

私たちは初めての「五山の送り火」体験なので、どこで鑑賞するのがよいのか勝手がわからず、選んだのは二階建て観光バスの「スカイバス」からの見学という方法でした。


昼間の甲子園観戦から京都へと戻り、急ぎ駅地下街の「Porta」で夕食を終え、集合場所の地上に出ると何と「雨」が降り出していました。

二階席からの眺望を売りにしているこちらのバスも、あまりの強い雨に天井部分を覆っています。

点火開始も遅れるとのことで、出発も遅らせるとのアナウンスがありました。

 

そうして待っていると「雷」も鳴りだし、バケツをひっくり返したような豪雨に。この悪天候は全く計算外でした。

雨は降り続いていましたが、少し弱くなったところで乗客には「レインコート」が配布され、乗り込むことになりました。

 

するとまた雨が強くなり、出発がまた遅れました。この後、遅れて東山の大文字の点火が始まったとのことで、強雨の中、急ぎバスに乗り込みました。

 

雨は降ったり止んだりを繰り返しつつ、バスがスタートしました。「京都タワー」の真下を通過中。

 

まるで「修行」に向かうがごとくのようでした。間に合うといいな。

 

やがて東山に浮かび上がる「大」の字が見えてきました。初めての「大文字」の瞬間です。

 

バスはよく見える位置をゆっくりと進んでくれました。

 

カメラはブレてしまい、これが精いっぱいの撮影でした。

 

この前日、奈良の「大文字」でも経験したことなのですが、何しろ「光量」が少ないですから、シャッタースビートは遅くせざるを得ません。

 

「妙」「法」は、ほとんど消えてきてしまっているので、そちらはとばしてバスは一気に西へ西へと走り「西大路通」へと右折をすると正面にぼんやりと「左大文字」が見えてきました。

 

こんな写真しか撮れませんでした。

 

金閣寺の横を過ぎ、道が右へと曲がりかけ始めた頃、建物の間から大きな大きな「左大文字」が見えて歓声が上がります。

 

アップで撮影しましたがやはりこの通り。

 

今年の「五山の送り火」は、妻の会社の休みが合わなかったので断念。アメブロを通じて、上手に撮影がされているいくつものお写真を拝見いたしました。

 

散々な「デビュー」ではありましたが、振り返れば忘れようにも忘れられない経験。一度、経験しておくと様子もわかったので、次はこの辺りから見るとよいのかな、という場所の勉強にもなりました。

今年はテレビの中継を見ても、以前とは違った思いで見ることもできました。

 

この悪天候の中、それぞれの山の中腹においては雨に打たれながらも、この行事を成し遂げた皆様のことを思えば、私たちの経験など比べようもないことです。初めての素晴らしい経験をさせていただけたことに、この場をお借りして感謝申し上げます。

点火時間の急な変更にもかかわらず、最大限見られるように努力していただいたバスの皆さまにも改めてお礼を申し上げたいです。本当にありがとうございました。

 

思えば、この経験をきっかけに昨年秋の「時代祭」に始まり、今年のまだ未紹介の「葵祭」「祇園祭」に至るまで、この一年間で「三大祭り」を含む京都の「四大行事」すべてを経験することができたのは喜びに堪えません。こちらの思い出も追々整理して、紹介させていただきたいと思います。

 

真夏の京都・奈良2泊旅行は最終日へと続きますパー

半月ほど、昨年の旅行記が中断したままでした。

再開いたします。


昨年の夏の旅行のときのものです。

2022年「第104回全国高等学校野球選手権大会」、いわゆる「夏の甲子園」へ。

 

外野も指定席制。こちらのみ当日券を販売していました。

私たちは1塁側の内野指定席を事前に購入していました。

 

大会11日目だったこの日は4試合。京都から新快速を乗り継いで到着したときには、第2試合が始まった頃でした。

 

強烈な「浜風」が甲子園を吹き抜けていました。

当然ですが、強烈な夏の陽射し。膝の上に置いていたカメラさえも焦がさんばかりの暑さのため、カメラはカバンの中にしまわざるを得ず、ほとんど撮影はできませんでした。

 

この日の第2試合は、栃木県代表「国学院栃木」対熊本県代表「九州学院」の対戦。

 

九州学院高校は、「村神様」ことヤクルトの村上宗隆選手の母校。この日はその弟さんの「村上慶太」選手が4番ファーストとして出場。この日は3打数1安打1四球1打点です。

今年、日本大学へと進学。今度はお兄さんと同じ神宮球場を舞台とする「東都大学リーグ」へと進みました。

 

九州学院2年生だった直江投手。この日は国学院栃木打線を4安打で完封と大活躍でした。今年の夏は、県大会決勝戦で「東海大熊本星翔」に敗れ、連続出場はなりませんでした。

 

試合間にはたっぷりと勢いよく水が撒かれます。水勢に負けぬようみんなで協力してホースをコントロールしています。

 

甲子園には「夏の雲」が似合います。

 

ここで見る雲は、私にとってはいつでも特別のものに感じられます。

 

この日の第3試合は、福島県代表「聖光学院」対福井代表「敦賀気比」の対戦。

 

ゲームは聖光学院が8対1で勝利し、ベスト8へと進出したのですが・・・。

 

この日、レンズが動かせなくなったのは敗れた敦賀気比高校のキャッチャー「渡辺優斗」選手の慟哭でした。

 

聖光学院の校歌斉唱の間、涙の止まらない女房役をそっと支えるエースの上加世田君。自分も悔しさでいっぱいだろうに。

 

左隣の選手もこらえきれず泣き出しても、それを両手で支えるエースの大きな背中。

この写真を見ているだけでも、還暦間近の私の涙腺まで緩んできてしまいました。

 

その夏、全国の高校の中で「たった1校」だけが勝ち取る栄冠。

 

それ以外の高校球児は同様に、涙を置き土産にグラウンドを去っていく。

 

コロナ禍の中、ここで泣くことさえ許されなかった夏もあった。

 

高校野球をこよなく愛した作詞家の「阿久悠」さんが毎日一編の詩を残した「甲子園の詩」。阿久さんならどのように編んだだろうか。

 

敗れざる君たち」こそが、甲子園の100年を超える歴史を作り上げてきたんです。泣きたいだけ泣くがよい。それが許されるのは、ここまで勝ち進んできた君たちの特権であり、流れる涙は君たちの前に敗れ去ってきた球友たちの悔し涙なのかもしれないのだから。

 

一戦ごとにドラマのある、そんな「甲子園」に出会えた瞬間でした。

 

第4試合は、東東京代表の「二松学舎大付属」対大阪府代表の「大阪桐蔭」との決戦となり、球場は満員に。

 

力投する大阪桐蔭高校の川原嗣貴投手。この日は6安打完封でチームは4対0で勝利しました。

ドラフトでの指名はありませんでしたが、社会人の「ホンダ鈴鹿」へと進んでいます。

 

名将、西谷監督もよく見えました。絶対王者視される苦悩も多いと思います。この次の準々決勝で対する下関国際高校が最終回に逆転で大阪桐蔭に勝ち、その勢いそのままに下関は決勝まで進み、仙台育英の前に散った昨年の夏。

 

今年の「第105回」大会もいよいよ明日が準決勝ですね。今年の栄冠はどこに輝くのか、球児たちのひたむきな姿に目が離せません。

 

昨夏の真夏の京都旅行記は、京都へと戻り続きますパー