大須観音と、大神神社と、大黒様との繋がり | パオンのブログ

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最初から続いている不思議な話です。
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先週の土曜日に、大須(名古屋市中区)へ出かけました。

この日は暖かく、家の中でゴロゴロしている気分ではなかったのか、妻が、「大須へ行かない?」と言ってきました。

大須には電気街もあり、レコードプレーヤーの部品を探したかったので行く事に。

もう一つ理由が有りました。

最近、取り上げている伊香氏族に繋がる場所だから、何か面白い発見があるのではと思ったからでした。

 

大須は、最近、名古屋で最も勢いがある街で、面白い店が沢山あり、人気エリアでもあるのです。

街の雰囲気は、どちらかと言うと大阪のコテコテとした何でもアリ的な感じの店が多く、エリア内には、1200店舗がひしめき合い、一日見て回っても飽きないです。

最近、名古屋は海外の旅行者にも人気で、この場所も、訳のわからない言葉が飛び交っていました。


あっという間に時間が過ぎ、最後に訪れたい場所が浮かびました。

この大須に、三輪神社があるのですが、一度も訪れたことが無かったので、「行きたい神社がある」と妻に告げると、妻はコメ兵に行くからと、別々な行動を取ることにし、私は、三輪神社へ向かいました。

 

携帯のナビを使ったのですが、何か変なのです。

画面を見るごとに、指し示す方向が違うのです。

ナビに頼る前に、検索した地図をかすかに覚えていたので、その記憶を頼ることにしました。

まるで、訪ねる事を拒むかのようにナビは反対方向に導いていたのです。

この場所がパワースポットだからでしょうか?

 

何とか辿り着くと、思っていた以上に参拝が多くいました。

 


三輪神社
うさぎの手水舎

[三輪神社境内の矢場]

この場所は「矢場町」と言われる地名で、味噌カツの「矢場とん」で知られます。

矢場町の由来は、尾張徳川家が、三輪神社の境内に弓矢を射る長廊の修練場を造った事が由来で、それは、京都の三十三間堂で行われる通し矢に、藩は威信を懸けていた事から、練習の場として、三十三間堂を真似て矢場を創建したのでした。

それは、三十三間堂通し矢の由来の浅岡平兵衛(清洲藩士)が51本通した事から縁があり、その後、三十三間堂で大記録を立てた星野勘左衛門が熱田神宮の大宮司の一族であった事もあり、その矢場は、星野家の管理となって行ったとされます。


その初代星野勘左衛門の三十三間堂での記録を見て、私はいつものように不思議な気持になりました。

通し矢とは、24時間で何本通すかを競ったものです。

勘左衛門は、1662年5月28日6666本を通した事で一躍有名になり、1669年5月2日8000本を通して更に名を馳せたのです。

何故、6並びで止めたのでしょう。

意味が有り止めたとしか思えないのです。

更に驚いたのが、5月28日は、私の結婚記念日で、5月2日は、私の誕生日なのです。

三輪は、母の姓です。

そして、通し矢の由来になった51本を5月1日とすると、閏年の八十八夜で、通年が5月2日であるから8000本の8に意識が行ったのです。

弓の名手と言われた藤原秀郷の眉唾物語にも、弓を射る時に幡神に願を懸けました。

 

この大須の散策最後は、夕食を、ピザで済ませる事に。

世界一になり名を馳せたピザ職人の店が大須にはあるので、一度訪れたかったのです。

この時には、天下一になった星野勘左衛門の事は知らなかったのです。

まるで、本能が、天下一を知っていたかのように、このピザ店を訪れたのです。

さすが、世界一の称号を持つシェフだけあり、

今まで食べたピザの中で一番のおいしさで、それなのに信じられないほどリーズナブルだったのです。


【那古野古墳】

日は暮れかけ、帰ることにし、地下鉄の駅に向かう時、「那古野古墳」と言う文字が目に入りました。





この地に古墳があるとは知りませんでした。

前方後円墳の円の土塁部分が残っていて、小さな公園になっていました。そこには、大きな木が聳えていて、賑やかな大須には場違いな空間を醸し出していたのです。

どうも、この古墳は、北を指しているように見えましたが、現時点では分かりません。

おそらく、徳川ゆかりの地でもある事から、名古屋城の向いている方角と同じかと私は思うのです。

もし、そうであるなら、白山を指しているものと思われます。

古墳の指し示す方角にあるのは、信仰の対象物である事からそう思うのです。

奈良明日香村の石舞台古墳もラインを引いたら、三輪山山頂を指し示していたのです。



(石舞台の指し示すものの記事はコチラ)

 

この記事を書き上げた時、TVニュースが目に入ってきました。明日、2月22日は、愛知の奇祭、国府宮はだか祭りが行われる日です。

宮地嶽神社と、相島の光の道も、米子城と大山との繋がりも2月22日。

国府宮のはだか祭りは、厄払いの難追儀式(なおいのぎしき)。

節分のルーツは追儺の儀式。

「難」と、「追」が逆になっていて疑問に思っていて、未だに分かりません。

2月22日の意味も分かりません。

裸祭りは、旧暦の正月の13日に行われる事から2月22日なのです。

日置村(現大須)に住んでいた日置部の大事な金気の数「13」と重なり、

今年の祭りに奉納する大鏡餅の作成の持ち回りは、厄年の長男の住む海部郡なのです。

そして、それをつく石臼は、閏年には、通年より一つ多い13用意するのです。

白山の持つ数「99」が、追儺と、難追のように逆になった通し矢の「6」の連なりが結びつく妙に、2の重りが不気味に映るのです。

それは、次の日が天皇誕生日だからです。

宮地嶽神社にある古墳の主の宗像徳善が、天皇の祖と言われるのも不思議な縁を感じるのです。


そして、大須の三輪神社の社紋が、大神神社の三本杉の紋ではないのです。

奈良櫻井出身の藩主が、大神神社から勧請した神社であるのに、半分が菊の紋で、半分は菊の葉とされます。

この由来は分かっていません。

何故、天皇家に繋がるのか、これも私には不思議な繋がりに感じるのです。

そして、この神社の祭神は、大物主ですが、「大黒様」を打ち出しているのです。

大黒様の打ち出の小槌からは、追儺の鬼が出るのでしょうか、それとも救済の馬頭観音が出るのでしょうか?

那古野古墳に井戸があったことや、追儺の言葉が逆になっている事がそう思わせるのです。