小中学校の音楽の教科書でも紹介されている、箏曲の「六段の調」。
日本の純邦楽とされています。
弾いていると1段から6段にかけてだんだんと感情を放出していくような、浄化されるような気持ちになる不思議な魅力をもった曲です。
八橋検校の作曲と伝えられてきましたが、現在は、もっと古くから存在した曲で、作曲者は不詳となっています。
一説では、筑紫箏の創始者である賢順(ケンジュン)が関わっているといわれていますので、ここで、その説を簡単にご紹介
賢順は1534年に築後国(現福岡県大牟田市)で生まれました。
そして、7歳の時に善導寺に入門し、このお寺で管弦演奏の箏を担当します。
彼は、自ら琴曲、箏曲を中国人から学び、独自の作曲を加えて筑紫箏という箏曲の礎を築きました。
彼の箏の音に惹かれた当時の大名 大友義鎮により、1562年、賢順は29歳で豊後に派遣されました。
その当時、豊後ではキリスト教がフランシスコ・ザビエルによってもたらされ、大友宗麟の庇護のもと、多くの人々が洗礼を受けていました。
教会では旧約聖書の物語などを音楽にして歌っていたそうです。
その地で、賢順はキリシタン音楽に初めて接したのです。
これまで接してきた音楽とは異なる、ミサの曲や聖歌にどれほど心を揺さぶられたことでしょう!
そして、それらの聖歌のイメージを箏で演奏したいと考えた賢順(あるいは他の箏演奏家かもしれません)によって、「六段の調」が作られたのではないかとされています。
皆川達夫氏により、「六段の調」は、グレゴリオ聖歌の「クレド」と密接な関係があるとの研究内容が公表されています。
「クレド」を3回繰り返すと「六段の調」と同じになること。
各フレーズの区切りが「クレド」と「六段」で同じであること。
「クレド」の冒頭の司祭の言葉は、六段の序奏部分「テーントンシャーン」
最後の「アーメン」が六段のコーダと重なることなど。
賢順はのちに「六段の調」のほか「乱」や「八段」を、表には出さない秘曲としました。
この秘曲を伝授されたのが、肥前国(長崎県諫早市)の慶巌寺住職の玄恕(ゲンジョ)です。
玄恕に教えを受けるために京から尋ねてきた八橋検校が、この秘曲を学び、平調子を考案して、現在の「六段の調」、「乱」や「八段」が作られたといわれています。
現在、平調子で演奏される六段の調は、元々は違う調子で演奏されていたということです。
グレゴリオ聖歌に関連した曲であった「六段の調」。
平調子に変えて演奏することで、キリシタン禁制令が発布された中でも、この曲がキリシタンの音楽であったことを知られずに伝えていくことができたのですね。
外のものを取り入れて、新たに日本的なものを生み出していく。。。
いつの世でも、日本人の得意技ですね!
※ブログの内容は、以下を参考にしました。
雑誌 邦楽ジャーナル2010年10月号
「六段の調」はキリシタンの音楽だった!」坪井光枝著、皆川達夫著
(こちらは現在、品切れです)
関連するCDがあります。こちらは購入可能のようです。
箏曲『六段』とグレゴリオ聖歌『クレド』~日本伝統音楽とキリシタン音楽との出会い~
発売 日本伝統文化振興財団
六段の調には、流派によって、いくつか異なる替手(メインの本手と合わせて弾くパート)があります。
私は、師匠の師匠が付けたとされる替手を教えていただきました。
その当時は、師匠の貴重な楽譜をお借りして、手書きで楽譜を写しました。
華やかだけれど、本手の旋律を浮き立たせてくれる替手です。
1段目の替手が通常使われる、雲井調子で弾くもの。
2段目が本手で、3段目が書き写したものです。
楽譜はこんな感じ。
お読みいただきありがとうございました。