宮古島に来ている。
いや、ここに至るまでがスッタモンダで大変だったのだが、
それは出発2日前の月曜日に突如発熱したせいなのだが、
一時はキャンセルやむなしか…という状況にまで追い詰められたのだが、
今こうして無事に宮古島の夜長を愉しんでいる訳だから、
その事はもう、いい。
「宮古ブルー」に癒されている。
心が洗われていることを実感している。
しかし、宮古島を堪能するのはまだこれからなので、
この稿では、「沖縄で想ったこと」を書き置く。
発熱を抑え込みながら那覇入りしたのは夏至の21日であった。
夕方投宿し、国際通りをウロウロしながら「沖縄第1食」の店を
物色し始めた訳だが、沖縄の日の入りは遅く、
8時近くなってもまだ夕方のような気分で、いたずらに宵の散策も長引く。
「そうだSDカードを1枚買っておこう」
目についたドンキホーテに入店し、電化製品のフロアに行ってみると
そこは中国人に席巻されていた。
いや、今さら電化製品でもなく、同じフロアで売られている
「くすり」が彼らのターゲットで、胃薬やらスキンケアやらをそれこそ
山の様に買い込んでいる軍団がけたたましく群がっているのだ。
コロナ規制の反動か。久しぶりの「爆買い」に遭遇したが、
店員もテンパってるので、話しかけることすらためらわれ、
見つけたところで爆買いレジ行列に並ぶ気も失せ、断念した。
文字通り「中国のバイイングパワー」に買い負けてしまったのだ。。。
そんなあくる日は、レンタカーを借りて、パワースポット巡り。
久高島と斎場御嶽をじっくり回った。
沖縄の祖先信仰やシャーマニズムを肌で感じたものだが、深くは語らない。
時間をかけすぎて当初の予定であった「平和記念公園」に着いたのはもう夕刻。
6月23日、全県揚げての「慰霊の日」式典の前夜祭でもあるのだろうか、
時の総理大臣を迎える準備が着々とととのえられていた。
話に聞いた事はあったが、戦没者20万人超の名前を刻み込んだ
「平和の礎(いしじ)」は、切なくも圧倒的な存在感で、しかも、
刻まれた故人の名碑の前に花を手向けるだけでなく、
座り込んで島酒を酌んでいるオジーの姿さえ目撃するに、
堪らない哀切がこみ上げて来る。
「平和記念公園」の次には「ひめゆりの塔」を見学するつもりだったが、
資料館はやはりとっくに閉まっており、翌日の式典のセッティングが施された中、
建物の周囲だけを拝観するのみであったが、
資料館の手前には「ガマ」=自然壕が大きな口を開けており、
こんな洞穴の中で耐え忍んで、あまつさえ「戦った」のかと思うと胸が塞がる。
その翌日は古宇利島までロングドライブのあと、さてどうするかと一瞬迷ったが、
知り合いから薦められていた佐喜眞美術館に行ってみることにした。
その日は慰霊の日当日で、ドライブ中のラジオ番組は「戦没慰霊特集」が
朝から続けられており、佐喜眞美術館でも夕方から
何かイベントが行われるということらしかったが、ダメ元でクルマを走らせた。
佐喜眞美術館では、丸木位里・丸木俊「沖縄戦の図 全14部」が特設展示されていた。
圧巻であった。
その大キャンパスに描き込まれた地獄絵図に対峙した瞬間に
観る者誰もが言葉を喪うことだろう。。。
ガマの内部のリアリティ、集団自決という悪夢…
苛酷という言葉では言い尽くせない凄惨な状況を沖縄は生き抜いて今がある。
私の中で沸々とこみ上げて来たのは「怒り」であった。
どうして、戦争の悲惨さを繰り返しません、なのだ!
こんな酷い事をやらかした米軍・米国を批難すべきだろ!
「反戦」でなく「反米」が当然だろ!
政治的な言及に走りたくはないが、その前夜、安里の呑み屋で出会ったオジーが
酔っ払って「〇〇に火炎瓶を投げつけろ!」と笑いながら飛ばしたジョークが、
あながち冗談ではないと思えてきた。
「目には目を」的な復讐に短絡的に走る事を避けるのは、
人間として高度に知的な振る舞いで、それ自体は素晴らしいことなのだと思うが、
沖縄にも広島にも長崎にも、謝罪らしい謝罪をしていない米国の姿勢を
このまま看過して良いものか。曖昧なスマイルで。
沖縄の人は、おおらかで優しく、寛容なタイプが多いように感じる。
凄惨な沖縄戦を体験させられたのに、米軍基地を受け入れさせられ
それが地域経済の軸として回っている現実を甘んじて受容している。
このアンビバレントな状況はいったいいつまで続くのだろうか。
米軍に対する恨みと怒り…、米軍基地がもたらす地域経済のサイクル…
そんなパラドキシカルな設定を押し付けた戦後の日本政府…
沖縄はアンビバレントでアンニュイで悩ましいのだ、と想う。
海はエメラルドに透き通り、空は青く突き抜けているというのに。。。
佐喜眞美術館は、米軍普天間基地のフェンスを突き破るような形で屹立している。
美術館の存在自体が「米軍許すまじ」を主張しているのだ――