鬼北シンポ”史跡の災害と保存整備報告”① | しもちゃんのブログ

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遺跡の保存問題は中心的には開発などの外部からの侵害から守ると言う視点で展開されてきたし、今日でもなおそのスタンスは変わっていない。


このスタンスはその通りであり、大事であるが、遺跡に災厄をもたらす原因は実はその内部にも抱えていることをこのシンポは史跡を例として取上げたのである。


史跡に内部から災害をもたらす主因は”水と植生”にあり、その原因は人災もあれば天然災もあれば複合しているものもあるなど複雑であるが、その因を探求し、除外しなければ多くの災害から史跡は逃れることはできないでしょう。


植生について言えば人災にもとづくことが多い。

その一つは人の手による植栽によるものであり、他の一つは長年の放置がもたらす災厄である。


今回は前者の植栽がもたらす史跡破壊について報告します。


その典型で地下で史跡を苦しめているのが”桜”です。


この桜はヤマザクラではなく、江戸末ごろ開発された観賞用のソメイヨシノで”あっ、奇麗”なんて刹那的感覚で地下のことなご考えず、たった年一週間のために所構わず、そしてあちこちの史跡や遺跡の上に植栽されています。


その結果が下の写真。


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この写真は愛媛県今治市宮窪町”国史跡能島城”の地下の状態。

能島城は中世村上水軍能島村上の代表的な海城。15-16世紀に活動した海賊の城として著名。近年の調査でその構造や機能の詳細が明らかになりつつあり、とても同時代の山城の延長で捉えられるものではない独自のものであることが判ってきた。


その発掘で明らかになったのが上記写真で、15末-16初のいわゆる地鎮遺構で浅い掘る込みのなかに土師器皿と円銭が納められていた。その遺構のなかに桜の根が中に潜り、上に走り、遺構を破壊し、土師器を砕いて進撃している現場写真なのだ。


この城には昭和初期から桜の植樹が始まり、戦後も昭和40年頃までそれを続けていた。その桜も今や多くがテングス病や膏薬病にかかり寿命を迎えようとしていて、これからとう対処するか正念場を迎えようとしている。

 たった年一週間の人の慰みのために、二つと無い歴史遺産がムザムザと破壊されるのを手をこまねて看過せよというのか。


桜で苦しむのは各地の城跡に植樹された桜であろう。桜名所の誉れ高い城ほど、桜人気とそれの遺跡破壊の懼れとの間で苦しみ寿命に来た桜をどうしたものかと悩んでいると聞く。桜で有名な青森弘前城、長野の上田城などもそうらしい。


そういう時勢にありながら、桜が奇麗だからと識者の反対にもかかわらず新たに植えたのが愛媛松山城三の丸の桜。企業や個人からの寄付で植栽したとのことだが、たとえ善意であろうと、年月が経ち、桜がさらに生長した折、これらが地下で文化財にどんな災厄を与えるか考えるとゾッとするが、善意のつもりが文化財破壊の補助者の汚名を浴び泣ければいいが。


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松山城三の丸の桜。50本前後は植えている。

年々地下も壊されてゆくのだ。