愛媛鬼北町興野々寺山遺跡の調査も終盤を迎える | しもちゃんのブログ

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これまで何度か紹介してきた表記遺跡の調査も終盤を迎えた。


二重の半環濠に囲まれた弥生後期の集落で、方形住居跡が散在する。

後期前半と終末(叩き甕)期とからなるが、前半期は1棟、終末期に増大する。


方形住居跡は3m×3mほどの小形の住居址で、不思議なことに住居の内外には柱穴が見あたらない。どんな上屋をしていたのだろう。


隣接の宇和島市拝鷹山遺跡(後期)では部分的なまとまらない柱穴はあるが竪穴住居跡は見つからず、住まいの形態が判らない。同じ文化圏に属する大月町ムクリ山遺跡でも広域な包含地がありながら竪穴住居跡はないなど、この西南四国の山手の遺跡にはどうも安定的、継続的な集落の営みが認められない。


合わせて、石庖丁はじめ、農耕関係の道具が超貧弱であるのも共通していて、弥生集落=農耕文化社会といったステレオタイプの遺跡評価には躊躇するというか、間違いが予見される。生業の一部に農耕が存在することは否定できないが。


ただ、土器は沢山でている。その型式的、文化的特色は実に面白いが、それよりも器種組成がどうなのか、その分析が期待される。
しもちゃんのブログ どう、柱穴が見あたらないでしょう。

しもちゃんのブログ 環濠にはこんなにどっさり土器がある、分析のしがいがあろうってもんです。

でも、ここは中世の国史跡等妙寺遺跡もかかえていて、学芸員は刻苦奮励していますね。明るいのが救いか。