宇和島市、市民提案城下町ぶらり探索コースー感動は高野長英旧宅址 | しもちゃんのブログ

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宇和島市では昨年来市民による城下町の歩き探索コースを作製していたが、去年度末「ぶらり宇和島城下-宇和島歴史探訪ー」という16頁ほどのA5版のパンフを作った。


そのなかには4つのコースが紹介されているがその一つの辰野川界隈コースー伊達家菩提寺を訪れてーの一部を散策した。


松尾芭蕉の母が宇和島出身ということからか芭蕉の句碑がある龍光院。


前原巧山が眠る西江寺(前原巧山墓は市指定文化財になっていて、寺前にはそのことが高札で紹介されているが、肝心の墓の位置が示されてないため、墓前でその偉業を感慨することができないし、パンフには何故に感ずるところがあるかが記されていない。オオオウにして行政がからむと偉業の事実のみを記して何故の部分がふっとぶので感慨が薄くなる)。


もっとも打たれたのはこのコースの最後に紹介されている高野長英旧居のところである。

建物は明治後期のもので、それを最近リニューアルしてそれを道路から眺めるようになっている。


建物は筆頭家老桜田佐渡の別邸だったそうだが、それを眺めても写真のようにどうってことはなく、別に面白いモノでもない。


だがその入り口に掲げられている作家吉村昭の随筆『史実を歩く』から抜粋された長英隠れ家に関する一文である。

 そこには「宇和島市に行くと、町の中の小さな流れにかかった橋の上にたたずむことが多かった。川に面して古びた、しかし造のしっかりした家がある。幕末の藩の筆頭家老桜田佐渡の別邸であった家である。私は、江戸の日本橋小伝馬町の牢屋敷脱獄してから宇和島藩にかくまわれていた蘭学者高野長英が、その家にひそんでいたことを知っていた。・・・・・・・

 いかにもお尋ね者の長英が潜居するにふさわしい家で、もしも捕吏にふみ込まれたら、流れの浅井川にとびおり、水を蹴散らしながら川を伝って逃げればよい、などど創造した。宇和島市には、長英に関する史料がが残されていて、その橋の上に立つ度に、長英についていつか小説を書きたいと思うのが常であった」と。


この短い文章のなかには、道具立てとして隠れ家と小流があり、幕末の伊達藩の姿勢、蘭学者の過酷な立場、窮地におかれるお尋ね者の身の危うさ、それに思いをよせる作家などすべてが詰まっている。これが作家の力なのであろう。


訪問者に若干の長英に関する知識と、置かれた時代の、そしてその時点の本人の心情への若干の想像力があれば、旧居址と流れというハードとそして作家のソフトの力を借りて、一挙に感慨は高まるのだ。


夕暮れであったが、しばらく旧居を裏を流れる小流にかかる小橋の上から、旧居の裏塀と流れを眺めながらあれこれ創造しながら佇んでいた。いい時間を過ごすことができたな。


この時代、洋學をまなぶことは命がけであり、それに比べ今の学者・研究者?のなんと脳天気のことよ。自分の保身しか考えないんだからね。


歴史を旅するということは人と出会うということだ。いろんな史料や史跡またはその整備工事はその小道具にしか過ぎない。それを誤解して箱物、建物などハードを巡ってスタンプを集めさせまわるなんてあれはただの運動だろう。

この意味でも巷間揶揄されて「い」や「ら」の一字を付け加えて呼ばれているいやし博だろう。
しもちゃんのブログ 突きあたらガ旧居、家が立ち込み右端も見えない。家の裏手に小流が流れる。長英はここに住み、兵学書の翻訳、砲台適地の調査、砲台図面の作成、藩士への洋學教授などを行っていた。いつ捕吏に踏み込まれるかと怯えながらであったであろうか。

しもちゃんのブログ 観光協会が建てた、案内板。作家はよりけりですが、的確ですね。

しもちゃんのブログ 裏手を流れる小流。幅5mほど、深さはこの日は浅かった。真ん中、黒塗り色が長英旧居。