自分の釣りに関する半生を振り返るシリーズその③です。
1990年代をトーナメント活動メインで過ごしたボクでしたが、2,000年代前半に大きな決断を下します。それは、十数年エントリーしたJBからの引退でした。
成績としては、マスターズの最高位でゼッケンNo.12を付けさせてもらった時もありましたし、並行してダブルエントリーしていた琵琶湖での西日本シリーズで年間3位に入ったこともあり、それなりに浮き沈みはありましたが悪くはありませんでした。
でも、それ以上のところに行くには、会社員をしながらのサンデーアングラーでは無理だと悟っていました。
だからと言って会社を辞めてフルタイムになる勇気はなく、またこの頃からいわゆるローカルJBが各地に誕生していてそちらにエントリーして続ける道もあったのですが、自分の中ではやるならマスターズより上でいろんなフィールドをトレイルしたい、それでこそプロ、みたいな思いがあり、スッパリと退くことにしました。
もちろんそれからも三重チャプターには出場していましたし、軸足はバスフィッシングに置いていましたが、トーナメント時代は時間的にも費用的にも出来なかったソルトウォーターのオフショアゲームにも傾注する2,000年代となりました。多い時は、年間の半分近くはソルトだった年もあったかも知れません。
よく行っていたのは鳥羽、志摩、知多半島でのジギングで、近海ジギングの主要なターゲットは一通り楽しみました。
青物。
シーバス。
マダイ。
ヒラメ。
他にもタチウオ、サバ、アジなどなどいろいろ釣って、当時のバストーナメントのフィネス中心な世界にドップリ浸かっていたので、ガツンと来て魚もデカくてよく引くジギングは本当に楽しかったですね。
そのうちエスカレートして来ていわゆる離島遠征にも行くようになり、見島、対馬、沖縄などにも足を延ばしました。
見島のヒラマサ。
沖縄のカンパチ。
どれも良い思い出です。
シイラを中心としたキャスティングゲームもずいぶんやりました。
そしてそれ以上にのめり込んだのがエギング。
特にレンタルボートでのボートエギングは、自分で船を操り、エリアを決めてゲームを進めて行くところがバスフィッシングと同じで楽しくて、ものすごくハマりました。
ボートエギングと言うと今ではティップランが有名ですが、ティップランという言葉が生まれるよりも前から、ふつうにその釣り方は自発的にしていました(ティップでアタリをとっているわけではなかったけれど流し方という意味で)。
東海のソルト雑誌であるルアーファンやハローフィッシング(いずれも今は廃刊してしまいましたが)から取材や原稿の依頼をいただくことも多くなっていたのですが、実はまさに今で言うティップランエギングを新提言という形で紹介していたりもします(笑)
カラーグラビアもやらせてもらったりして、世間の人は「渋谷さん、ソルトに転向したの?」と思ったかも知れません(苦笑)
ダートマックスがホントによく釣れました。
そんな感じで釣りの半分近くをソルトゲームに注ぎ込んで、純粋に楽しみまくっていたJB引退後の2,000年代でした。
まだまだ続きます。