昭和15年末~16年初めにかけて、海軍省調査団による飛行場適地調査。
16年3月15日 赤江町役場にて敷地内農民への説明会。昭和17年3月15日を期限に退去命令。
昭和16年4月10日 工事開始。
同年8月6日 滑走路周辺整備及び引き込み線建設工事。
昭和17年3月15日 飛行場敷地内の民家退去期限。
昭和18年12月1日 海軍航空隊の練習基地として開隊。
第一二連合航空隊に編入、陸上攻撃機実用機教程を担当。「宮崎海軍航空隊」「赤江航空隊練習部」の2枚の門札を掲示。
昭和19年2月15日 鹿屋基地において開隊した第六二航空隊、第七六二航空隊の九六式陸上攻撃機及び一式陸上攻撃機隊の訓練基地として使用。
同年7月10日 第二航空艦隊所属の基地となる。第七六二航空隊攻撃、第三飛行隊攻撃、第四〇五・四〇六・七〇八飛行隊、第三四一航空隊戦闘、第四〇一・四〇二飛行隊の訓練基地となる。
同年7月20日 海軍航空隊の大編成替えで赤江基地は実戦の中継作戦基地となり、第七二一、陸軍飛行第七戦隊が配置される。
同年8月1日 赤江基地は海軍航空隊の練習基地を解散。
とか・・・
あまり詳しく触れても読む方はいないと思うので後はザックリでw
同年10月頃より台湾沖航空戦への出撃が始まります。10月10日には赤江基地第二航空艦隊の第七六二航空隊作戦基地として開隊。
それと同時に赤江基地周辺に掩体壕が建設され、飛行場の拡張建設工事も進められます。
台湾沖航空戦が10月12、14日と続く中、10月19日には神風特別攻撃隊が編成されます。
10月24日には、比島レイテ沖海戦(有名なレイテ沖海戦)ですね。そして10月25日、神風特別攻撃隊敷島隊の第一陣が出撃。
昭和20年2月15日以降、海軍航空隊再編成により赤江基地は特別攻撃隊の発進基地となる。3月11日には菊水部隊梓特別攻撃隊銀河が出撃。他の基地を含め総出撃機数192機、未帰還103機・・・
3月18日、赤江基地及び宮崎市への米軍艦載機による初空襲、午前に五四〇機、午後にも二〇〇機が飛来。多くの死傷者がでる。赤江基地より三〇六、三〇七飛行隊の零戦90機が出撃し反撃。
この頃より銀河特別攻撃隊による出撃も増えていきます。。。
終戦までの特攻隊員数は83名。
そんな赤江飛行場・・・滑走路は80×1500が2本、掩体壕は有蓋中型7基、小型7基、無蓋中型37基、建造物として指令所、無線電信所、燃料庫、弾薬貯蔵庫、航空魚雷格納庫、魚雷格納調整所等が造られていたとされてます。
さて・・・
前置きが長くなりましたが、赤江飛行場跡に残る遺構・・・その①は。。。
掩体壕です。
現宮崎ブーゲンビリア空港滑走路横に3基の小型掩体壕が残ります。
1基目・・・「5号掩体壕」と呼ばれてるもの。

掩体壕外周は整備された道が付けられ、ぐるりと周る事ができます。。。

が・・・

いや、フェンス要らんのちゃいますか?
保存するんはええ事やけど、コレはちょっといただけませんなぁ・・・
てか、保存でもないのか・・・手入れする事もなく閉ざしてるだけやもんなぁ。。。
ちゃんと手入れして見せなさい。触れる事もできへんようにして放置すんな‼

一部小さなクラックはありますが、状態はいいですね。

内部もキレイですね。



後部・・・

2基目・・・「6号掩体」
こちらは田んぼにポツンとあります。

フェンスも設置されてないですね。




状態は良い感じです。



正面下部にはコンクリート・・・レールの跡にも見えますが当時のモノかは不明。


入るなとか書いてるし外からだけw





南国だねー。掩体壕の上にソテツwww

最後ね。『7号掩体壕』
コレは完全に放置。状態悪いしね・・・




後部は崩落。

細いながらも、鉄筋は使用されてますね。

内部・・・

後部は大きなクラックが確認できます。


そんな赤江海軍飛行場跡に残る掩体壕でした。

~おしまい~

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