中国軍管区司令部跡 | 遺産、遺跡を求めて…

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見りゃわかるさ(笑)

『中国軍管区司令部跡』



明治27年の日清戦争勃発とともに、広島城本丸に大本営が置かれます。昭和20年6月には中国軍管区司令部に昇格。本丸下段には司令官室や参謀部のある1号舎の他、比治山高等女学校の生徒宿舎や、今回紹介する半地下の防空作戦室がありました。
この付近は爆心地から790m、半地下の防空作戦室も爆風で破壊されましたが地下施設は全壊を免れます。そして、広島壊滅の被害第1報はここから発せられる事になります。




以下、Wikipediaより・・・

延床面積208㎡。天井高は約1.9m、壁厚は50cmもあり、上部は土で覆われ木も生えている状況で一見するとわからなくなっている。
中は5つの部屋に仕切られており、当時は入口側からそれぞれ「情報室」「無線通信室」「指揮連絡室」「作戦司令室」と呼ばれた。
作戦司令室は、文字通り参謀や将校が作戦を練るところ。壁には防空監視哨の位置を示す電球が埋め込まれた中国地方と四国北部の地図があった。小窓を布で隠すなど外から中の様子が分からないよう処理され、軍人用の入り口が別に設けられていた。片隅には臨時ニュースを流すときのため広島中央放送局(NHK広島放送局)アナウンサーが待機する場所も設けられていた。
指揮連絡室は、作戦司令室からの伝票を受け役所や主要軍事施設へ電話連絡していた。学徒動員で来ていた比治山高等女学校(現比治山女子高等学校)生徒2、3人で担当した。
無線通信室には通信兵が入っていた。
情報室は、防空監視哨からの電話を受け取るところで、ここのスイッチを操作すると作戦司令室の壁の地図の電球が点滅した。比治山高等女学校生徒10人程度で担当。
また、当時は重要書類を入れていた資料室や、すぐそばに鉄塔もあった。





注:コンクリートの剥離等、施設内部の老朽化が進行しており、現在施設内の見学は中止になってます。




訪問時は見学申請をすれば、内部見学許可がいただけました。












壕の天井部には、鉄筋やアングル、トロッコ用のレールと思われるモノまで、様々な鉄類が補強の為に使われてました。











入口より、最初の部屋は「情報室」とされてます。





片面の壁は桟木(コンパネ等を張り付け壁に細工がし易い様にする目的)が埋め込まれてます。







二つ目の部屋は「通信室」














三つ目の部屋は「指揮連絡室」







片側の壁には傾斜が付いてます・・・







来た方向「通信室」と「情報室」




各部屋は通信用配線等を通す穴があります。






灯り用か?電気スイッチボックスと思われる場所。






そして最奥は「防空作戦室」







この部屋の痛みがひどいんですよね・・・







天井部はコンクリートが剥離・・・













柱の状態も悪いですね。














奥には通路もありましたが、途中で埋められてます。

















クランク状の通路は瓦礫で埋められてます。














各部屋の通気口も瓦礫で埋められてます。














では・・・

外に出て、外観の状態をザックリと・・・































































写真多くて申し訳ない中国軍管区司令部跡でしたw



       ~おしまい~







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