1898年(明治31年)6月着工、1900年(明治33年)9月竣工。
備砲は270mm加農砲4門、90mm速射加農砲4門。
二度死んだ砲台…
いつしかそう呼ばれる様になったこの砲台…
詳しい資料が無いのが現状ですが、岸根鼻砲台跡は平成5年度~7年度にかけて沖美町の観光地開発事業で整備され、観測所跡を展望台に、そして掩蔽部跡を「岸根砲台記念館」などとして昔の資料なども展示していたそうです。
が…
沖美町が江田島市に合併されると予算の都合なのか公園は放置され、再び荒れるがままにまかせる状態となっているというのが現況のようです。
一度目は戦後、無用の長物となり忘れ去られた砲台は確かに死んだのかもしれません。
でも…二度目は明らかに殺してしまってるんですよね。。。
二つ半分の砲座、その他の遺構などを解体して駐車場にして「岸根砲台記念館」?
あげくに放置とは…あまりに酷い話しと思います。
掩蔽部を使った「記念館跡」

カビだらけの説明看板やその他の展示物だったであろう品…

ただ一箇所だけ残った砲座跡。

ボルトの跡もあります。

即対応用弾丸置場…

寂しげな案内板…

弾薬庫

弾薬庫内より

弾薬庫左側より藪に埋もれた遊歩道的な階段を上がると観測所跡…

コンクリートで柱の跡などもキレイに補修され、ご丁寧に縞鋼板で階段まで…

指揮所…?

動哨路

見晴らしは良かったですね。

以上…たんたんと説明さしてもらいました岸根鼻砲台跡。
何か見てて寂しさを感じるものがあり、写真もこれがほとんどです。
と、言うよりあまり撮りたいと感じなかった…と言うのが本音かな。。。

駐車場の方には90mm速射加農砲座の何かしら遺構は残ってると思われますが…
藪が酷く探索は諦めることにしました(-_-;)
砲台跡近くにある「がんねムーンビーチ」

と…今回はもう一箇所、次の江田島探索⑤で紹介する場所へ移動する道中に
陸軍の「船舶特別幹部候補生第十訓練基地」がありましたので少し立ち寄りました。
現在の訓練基地跡には当時の石積み突堤しか残ってません。

「船舶特別幹部候補生第十訓練基地」とは陸軍が対戦末期250㌔の爆薬を搭載したベニヤ板製モーターボート『マルレ艇』の訓練をしていた場所です。
現在では特攻艇として認識されているマルレですが、海軍の震洋と違い最初から特攻艇として開発されたものではないそうです。
震洋は艇内に爆薬を搭載しているのに対し、マルレは艇尾に爆雷を懸架する形式で、高速で敵船団に奇襲をかけ、敵船至近に爆雷を投下して離脱するという構想の元に開発された攻撃艇だったんですよね。
しかし太平洋戦争の戦局が悪化する中、この攻撃艇を体当たり特攻艇として使用した方が技量もそれほど要らないし戦果は確実に上がるであろうと言う事で体当たり作戦が採択されたとされています。
本土決戦用に備え沖縄、九州、四国、紀州の太平洋沿岸に配備され、実際にフィリピンでは激戦の中10数隻を撃沈したそうですが…1636名が戦死したそうです。
また、広島に原爆が投下された後、司令部からの命令により広島の復興や救護活動に全力を尽くし、そして隊員のほとんどが被爆したそうです。
突堤の東側には海上艇進戦隊戦死者の慰霊碑と原爆被災者慰霊碑の両方が建てられています。
そっと手を合わせてその場を後にしました…

次回、江田島探索⑤に続く。