「魔物は、僕の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感を煽り、あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて踊りをさせているかのように僕を操る。それには、かつて自分だったモノの貴信のごとき「絶対零度の恐怖」を感じさせる」                 懲役13年(酒鬼薔薇 聖斗)より抜粋



外部がその”正当性”を訴え、またその”正当性”を解しないが故に”我”を否定しようとする。

あたかもそれが”我”の能力の欠如、不完全性の証拠を付きつける絶対正義の守護者の如くに。

外部はまた、その”正当性”に賛同しない者の存在に恐怖し、賛同するものと徒党を成す。

外部は”孤独”を恐れるあまり、”孤独”を享受している者の存在を恐れ、憎しみ、迎合を促すか、さもなくば”正当性”の名の下に”我”の排除を実行する。

外部はまた、みずからが掲げる”正当性”の”自明性”の崩壊を何よりも恐れる。

それゆえに、その”自明性”を疑うものを蛇蝎の如く罵り、”大勢”の敵として汚名を負わせ、自らの”正当性”をさも”論理的”かつ、”神聖”かつ”自然発生的”であることを示そうとする。

これらの状況において、外部が選択する行動は、「真実に目を向けさせないこと」である。

それは、人から”考える力”と機会を奪い、自分たちの主張する”正当性”こそが絶対であり、他の方法は存在しないという押し付けであり、洗脳であり、支配である。

”考える力”を失ったものには”隷属”を、”考える力”を持っているものには弾圧を。

それこそ、外部が自らの”王国”を守るために編み出した苦肉の策だ。

しかし、これらの事を知っても何も変わらない。

人は本質的にエゴ(利己的)な生きものである。

あらゆる事象を、自分の都合に最も適した形で分析、解釈し、組み立てなおす。

ゆえに、自らの行動を否定されようが、それが自分の利益を損なうものであれば、本性的に受け入れるべきではない、と考えるのだ。

”我”が”我”で、この"我"を生きるしかないように、”外部”もまた、たまたま”外部”であるだけなのだ。


与えることも、与えられることも好きではない。

それよりも一緒に考え、一緒に行動し、一緒に作り上げ、一緒に共感したい。


既存の物事を操作するよりも、新しい何かを作りだしたい。


言葉を尽くして語るよりも、選び尽くした言葉で語りたい。



憐れみの言葉をかけるよりも、更なる高みへと導く言葉をかけたい。


最善の選択肢を追い求めるよりも、最悪の事態に対処するシナリオを用意しておきたい。


起こったことを後悔するよりも、同じことが起こらないように出来ることを考えたい



正しさを教えるよりも、正しさとは何かを考える事を教えたい。


欲望をひた隠し欲望を忌み嫌って生きるよりも、欲望を自覚し欲望に忠実に生きていたい。


愉しい事を見つけるよりも、愉しみを探す事を愉しみたい。


移り変わるものよりも、永遠に変わらないものを大切にしたい。


他人に認められる努力よりも、自分に認められるために努力したい。


明日死ぬとしても、変わらずの自分でいられるような今日を生きたい。


自分の世界を代弁してくれる言葉を探すよりも、自分の言葉で自分の世界を表現したい。


偽善の幻想に浸るより、己の矮小さを自覚した偽悪者でありたい。


自分の無知を嘆くよりも、今まで知らなかった事に出会えた事に感謝したい。


他人の世界観を尊重するよりも、他人の世界観を広げる事に力を尽くしたい。


好きだから閉じ込めて何者からも守ろうとするよりも、好きだから何者にも犯されないように鍛えてあげたい。


行動の結果を積み重ねるよりも、行動から得られたものを積み重ねていきたい。



思考の外の面白さに感動するよりも、思考の中の面白さを豊かにしたい。


他人に命令してもらうよりも、自分で命令を作りたい。


支配を否定した自由を気取るよりも、自分も含めたあらゆる行動が力の支配によってなされている事を自覚して生きていたい。


例え他人の期待を裏切ることになろうとも、自分の意思は決して裏切りたくない。


例え真摯に他人のために尽くしてあげているのだとしても、他人のために尽くしたいという自分の欲求が含まれていることを一時でも忘れて生きたくない。


行動の理由を自分の外に求めるよりも、自分の中から発した意思によって行動したという自覚を持ち続けたい。


自分にしか出来ない事があることを認めたいように、他人にしか出来ない事があることも認めたい。


自分に考える力があることを自覚しているように、他人にも考える力があることを認めたい。


今という時間よりも良い時間悪い時間は訪れるだろうが、同じ時間は二度と来ないという事実を認識して生きたい。


物事についての考えを深めるのと同じように、物事を感じとる範囲を広げたい。



物事はどう伝えるかよりも、何を伝えるかが先にあることを常に自覚しておきたい。


考えの善悪を指摘するよりも、考えの甘さを指摘したい。


この世で絶対だと、少なくとも限りなく絶対的であるといえるものは、確かに存在する。



あくまで‘生きている’ことを前提とするのであれば、「1日が同じ時間、つまり24時間の繰り返しであること」。そして、「個性、魂など呼び方は多数あるが、‘私’が‘私’である、ということ」だ。



これまで、昨日まで、‘今’という瞬間が訪れるまで、万事快調に過ごしてきたことが、明日の存在の確立を何一つ保証しうる材料でないという事実。未来の幸福、腐敗した現実の改革、数多の努力と敗者の上に築かれる成功、死後の楽園。これら不確定かつ、何の前触れもなく消え去るかもしれない夢という理想であり、幻想でもある価値のため、‘今’というこの瞬間の充実を犠牲にするに足るいかなる理由も存在しない。



‘今’、このとき、この世界を、‘私’が間違いなく立っているこの世界を、愛することなくして未来の理想に酔いしれることは、‘逃亡’と呼ばれるに他ならぬ。それはまた、自分の世界に対する‘敗北’であり、「現実から目を背け、現実を冒涜する行為」に他ならない。



今に目を向けろ。決して目をそらすな。私の存在していないかもしれぬ世界より、今確実に私が地面を踏みしめることの出来るこの一瞬こそが全てであると肝に命じよ。


明日死ぬと思って今日を生きろ。永遠に生きると思って夢をみろ。


外部の‘強制’に身を委ねるな、内部の‘命令’によって自己を確立せよ。


忘れるな。自分の思考、行動は自分の魂が全て記録している。魂を汚すも、魂を昇華させるも、全ては自分が全てを知っている。


自分は自分を欺き、自分から逃れることは出来ないのだから。




今日はこれまで


それでは~