外部がその”正当性”を訴え、またその”正当性”を解しないが故に”我”を否定しようとする。
あたかもそれが”我”の能力の欠如、不完全性の証拠を付きつける絶対正義の守護者の如くに。
外部はまた、その”正当性”に賛同しない者の存在に恐怖し、賛同するものと徒党を成す。
外部は”孤独”を恐れるあまり、”孤独”を享受している者の存在を恐れ、憎しみ、迎合を促すか、さもなくば”正当性”の名の下に”我”の排除を実行する。
外部はまた、みずからが掲げる”正当性”の”自明性”の崩壊を何よりも恐れる。
それゆえに、その”自明性”を疑うものを蛇蝎の如く罵り、”大勢”の敵として汚名を負わせ、自らの”正当性”をさも”論理的”かつ、”神聖”かつ”自然発生的”であることを示そうとする。
これらの状況において、外部が選択する行動は、「真実に目を向けさせないこと」である。
それは、人から”考える力”と機会を奪い、自分たちの主張する”正当性”こそが絶対であり、他の方法は存在しないという押し付けであり、洗脳であり、支配である。
”考える力”を失ったものには”隷属”を、”考える力”を持っているものには弾圧を。
それこそ、外部が自らの”王国”を守るために編み出した苦肉の策だ。
しかし、これらの事を知っても何も変わらない。
人は本質的にエゴ(利己的)な生きものである。
あらゆる事象を、自分の都合に最も適した形で分析、解釈し、組み立てなおす。
ゆえに、自らの行動を否定されようが、それが自分の利益を損なうものであれば、本性的に受け入れるべきではない、と考えるのだ。
”我”が”我”で、この"我"を生きるしかないように、”外部”もまた、たまたま”外部”であるだけなのだ。