この問いは、同時に”快楽”は許容されるべきか否かを考える必要がある。
すならち、”快楽”は善、もしくは悪という区分が可能のだろうか、ということだ。


どちらでもないし、どちらでもある。


つまり、その善悪を問う必要もなければ、答えもない。


また、快楽は自然発生的かつ、それを求める人間の欲求が存在することについては、疑いようがない。


快楽に溺れる、快楽を正当化する、快楽を至上目的とする。
これらいずれも、それらを取り締まる正当な理由は存在しない。


それが法的に間違いなく、他者に迷惑をかけるものでないのであれば、という限定条件下ではあるが。


また、快楽の性質についても考えてみよう。

これについてニーチェは、
「快楽は永遠である」と、ツァラトゥストラの中で述べている。
正確には、快楽は、いつまでもその状態でありたい、という”超人”の志向するところの性質を有している、ということを意味している。


そのことに疑いはない。


が、しかし、”超人”に至る要素は一過性かる永遠の”快楽”だけではない。
何よりも、”創造”し、自己を超越することにある。


そのための、創造するための、”自己内省”。
これも重要な要素である。



今日はここまで

それでは~




”自己超克” 歴史は繰り返す。


人は同じ過ちを繰り返し、時と共に忘却し、無意識下に押し込め、そして再び、まるで初めてそれに相対したかのように同じことを繰り返す。


人生、社会、歴史、惑星、太陽系、銀河系、原始、分子、極大、極小に至るまですべてを内包し、かつそれらをつなげるネットワーク、連続性を有する、”無限連環永久機関”、もしくはその構造として、この世はここに”在り”、”今”私もそこにいる。


そこにいることに”意味”は無く、確率、偶然であり、また必然でもある。自分が気づいたときにはこの世に”いた”ことは偶然だが、”生まれた”ことは何らかの意志による”必然”であるからだ。


人は、少なくとも私が認識しているところの人は、自己を超克し、他者の存在の認識に至る。


「人のために何かをする」とは、すなわち自己に囚われない、自己の殻を破ろうとする一つの働きであるかもしれない。


しかし、他者との関係性に迎合が混じると、堕落し、永劫に再び囚われることになる。


”自己超克”はこれゆえ、”停滞”を嫌い、”成長”や”進化”に類する概念であるかもしれない。


しかし、”成長”や”進化”に囚われると再び永劫の軸に組み込まれる。


このような「超克→虜囚→超克」の繰り返しも、見方によっては永劫に落ちた状態であるかもしれない。












ニーチェの思想について思考していたときの文章です。

今回から「です・ます」調の使用は取りやめにしました。
こちらの口調のほうが厳密に考えれるような気がしたからです。
とはいえ、気まぐれに、その時々に応じた形をとろうと思っています。


今日はこの辺で

それでは~


孤独は恐怖でしょうか?

仮に恐怖としましょう。その場合でも、孤独から逃れることはできません。なぜなら、”私”は”私”以外の存在に成り代わることは出来ないからです。つまり、他人の気持ちがわかる、ということはあくまで絶対ではなく、観察・想像の域を超えることはできない。

よって、”わかる”と言い切ることは誤りとなり、真実から外れた逸脱、つまりフィクションやファンタジーにおいてのみ達成を見るしかない、ということです。


また、”共感”について考えてみましょう。この場合の”感じる”とは、味覚や触覚などの主観的なものではなく、あくまで”精神的”なものです。つまり、「”概念”を共有できる(できた)」ということだろうと思います。

例えば、リンゴや蜜柑という言葉からは、容易にその意味を理解し、その概念、その言葉が示す像を頭に浮かべることは難しくはないでしょう。

では、”向自有”という言葉はどうでしょうか。漢字の意味からなんとなく意図するところを推測できなくもないですが、正確にそれが指し示す概念を共有するのは容易では無いでしょう。しかし、仮にこの”向自有”の概念を共有できるものが2人、ないしは3人以上いたとすれば、そこで初めて”共感”という状態がなされる、ということになるでしょう。歴史的に見ても、共産主義や社会主義、ヘーゲル学派や大陸合理論など、様々な思想が生まれてきましたが、それらはつまり創始者の考え方に”共感”した者の集まりであったということです。ただし、共感したという者達の全てが、創始者と同じレベルまで考えることが出来ていたのかというのは、キリスト教の変遷を見る限り疑わしい部分も残ります。


話が逸れましたが、ではどのようにすればこの概念というものを共有することが出来るのでしょうか。単純なことです。考え続ければいいのです。というより、考える他に手段は無いのです。自分を頭を使って。言葉を論理やその真偽の理解の次元で押し留めるのではなく、その大元の基礎の基礎たる概念を掴み取って初めて言葉を発する意義というものがあり、伝わるのです。

では、考える以外には絶対に概念を伝える方法は無いのでしょうか。上記と矛盾するようですが、確かにあります。しかも、ありふれています。TV、アニメ、動画など、つまり概念を具現化したものです。しかし、これらは概念を簡単に伝えるため、自ら考える機会を奪います。つまり、考えに考え続けた結果として人と繋がる”共感”を得ることが出来なくなってしまうのです。私はここに人間の堕落を見ました。


今日はここまで


それでは~