この問いは、同時に”快楽”は許容されるべきか否かを考える必要がある。
すならち、”快楽”は善、もしくは悪という区分が可能のだろうか、ということだ。
どちらでもないし、どちらでもある。
つまり、その善悪を問う必要もなければ、答えもない。
また、快楽は自然発生的かつ、それを求める人間の欲求が存在することについては、疑いようがない。
快楽に溺れる、快楽を正当化する、快楽を至上目的とする。
これらいずれも、それらを取り締まる正当な理由は存在しない。
それが法的に間違いなく、他者に迷惑をかけるものでないのであれば、という限定条件下ではあるが。
また、快楽の性質についても考えてみよう。
これについてニーチェは、
「快楽は永遠である」と、ツァラトゥストラの中で述べている。
正確には、快楽は、いつまでもその状態でありたい、という”超人”の志向するところの性質を有している、ということを意味している。
そのことに疑いはない。
が、しかし、”超人”に至る要素は一過性かる永遠の”快楽”だけではない。
何よりも、”創造”し、自己を超越することにある。
そのための、創造するための、”自己内省”。
これも重要な要素である。
今日 はここまで
それでは~