年内最後のブログです!
2018年も大変お世話になりました!
マイペースに更新していた読書感想文ブログにお付き合いくださり、本当にありがとうございましたm(_ _)m
さてさて年内最後の一冊は岸田秀『ものぐさ精神分析』です。
こちらはライティングゼミで知り合いになった方からおすすめいただいた一冊。
「ものぐさ」とタイトルにあるので軽〜く読めるだろうとあなどっていたら、文庫本で400頁を超える超大作。しかもテーマが精神分析。
本書はさくっと読めるところとそうでない難解なところが散らばっていて、読んでは投げ出し〜読んでは投げ出し〜をちびちび続けた結果、読み終わるまでに1ヶ月ほどかかってしまったのでした(泣)。
本書は「歴史について」「性について」「人間について」「心理学について」「自己について」の5章立てで、戦争から自意識に至るまでの諸問題について精神分析の視点からまとめられた一冊です。
今までは精神分析と聞くとこれまで感じていた生きづらさが解明されて超ハッピーになる! みたいなイメージがあったのですが(なぜ?)、本書を読むことで人間の心についてより混迷を極め、さらに深い森に入ってしまった感が否めませんでした。笑
昨日読んだ高山羽根子「居た場所」の感想文でも書きましたが、「わかった!」なんて安易に言えるものじゃないんだとひしひしと感じました。
とは言え響いたところもいくつかありました。それが「歴史について」と「自己について」。
「歴史について」では著者は日本の歴史をひもときながら精神分析を行い「近代日本を精神分析する」と題して黒船来航時の日本の反応の極端さを取り上げ、精神分裂的な日本人の性質を暴いています。
戦時中の日本兵が「お国のために」と先陣を切って敵地へ乗り込んだ勇敢さと、捕虜になってしまった日本兵が陣地を敵に教えてしまう卑屈さは両極のようで実は表裏一体のもので、⚪︎か✖️かどちらかでしかいられないのは精神分裂的な症状だと言います。
どうして日本人にはそういうところが顕著にあらわれるのか?
その鍵となるのが「抑圧」という言葉です。
「抑圧」とは自分の立場をおびやかすものという意味で使われています。それは身分制度や戦争など他者からのものだけではなく、自我と無意識という自己の領域のなかでも発生します。
わたしは日本人はまじめすぎるから理想でない人をどうしても許せなくて極端になってしまうのではないかと思いました。
まじめであればあるほど「そうでない自分」は無意識のうちに抑圧され、抑圧の「澱」のようなものが溜まって爆発して極端な人間性が生まれてしまうというような感じをイメージしました。
そういうことが「自己嫌悪について」の章に書かれていて、わたしにも心当たりがありハッとさせられました。
「自己嫌悪は、容易に他人への嫌悪と軽蔑に転化し、また、それを支える基盤となるのである。自己嫌悪は、内的葛藤の状態であり、内的緊張を高める。その緊張の解消のために、嫌悪が必然的に他人に投影されるようになる。差別と偏見の心理的基盤はここにあるとわたしは思う。たとえば、人々が便所の汲取人を軽蔑するのは、排泄行為をする現実の自分の姿に嫌悪を感じ、自分のその側面の非自己化し、抑圧しているからである。その自己嫌悪が汲取人に対する差別と偏見を支えている。(中略)
要するに、自己嫌悪ほど卑劣なものはない、というのがわたしの結論である。」(327頁)
自己嫌悪しまくっていたわたしは卑劣な人間なのか……!! と年内最後の衝撃。笑
確かに自己嫌悪とは見苦しい自分や愚かしい自分を認めたくなくてするものです。その矛先が簡単に他人に向いてしまうこともあり得るかもしれない……。
自己嫌悪は誰にも迷惑をかけないことだと思っていましたが、それはとんでもない思い違いだったようです。それが差別や偏見の基になり得るということを考えたこともありませんでした。なるほどなぁ。
本書をひととおり読んでわかったことは
伊丹十三さんの解説が素晴らしいこと(ちびちび読んでいたため冒頭の話を忘れかけていたのですが、伊丹十三さんの名解説で見事に思い出すことができました)と、
この世の現実はだいたいまぼろしだということと
人間はみんなどこかおかしい存在だということでした。笑
そして読み終わって感じたのは
もうありのままに生きればいいじゃん!という開き直りのメッセージでした。笑
この世の「こうあるべき」とされる事象はすべてが社会や文化の都合によってできたもので、実際に「そうあるべき」明確な理由なんてない。
女らしく/男らしくだけでなく、性のタブーや「母性」とかいうものもぶっちゃけまぼろし。けれどそれを公言すると社会的に不都合なことが多いので、それを踏襲しているまで…ということなのだそうです。