文芸 2018年 11 月号 [雑誌] 1,404円 Amazon |
この物語を読み終わったとき、何事も簡単に「わかった」なんて言うのは傲慢なことなんじゃないかと思った。
高山羽根子「居た場所」は、主人公「私」の妻・小翠(シャオツァイ)が生まれて初めて一人暮らしをした場所をめぐる物語。
小翠は日本に留学生としてやってきたときに「私」と出会い、入籍してからは「私」の家業を手伝い、亡くなった母の代わりを完璧にこなすほど献身的に働く女性だった。
小翠の思い出の地をめぐる旅は、母国を離れ、日本で身を粉にして働く彼女へのねぎらいのために計画したのだが、グーグルマップで実際の場所を調べようとしてもどこにも見当たらない。小翠はここだと言うけれど、指し示す一画はボンヤリとしか表示されず、どこか不穏な空気を漂わせていたのだった。
物語の舞台ははっきり明かされないが、おそらくアジアの小さな島のどこかである。
狭くて汚い路地、廃墟と見紛うほどに朽ち果てた住宅街、日本ではありえないほどの不衛生な市場……現地に降り立った「私」ははじめて見る景色にただただ驚き、そしていくばくかの恐れを抱いていた。
小翠と「私」はグーグルマップでは見つけられなかった場所へ実際に足を運ぶ。地図上には表示されなかったが小翠が「居た場所」は確かにあり、小翠は懐かしさに浸る。
小翠の目的が果たせて満足した「私」だったが、その後二人に不思議な出来事が襲いかかる……。
この不思議な出来事はなんだったのかは「わからない」と作中で明言される。
テクノロジーの進化のおかげで、最近いろんなものが「わかる」ようになってきているが、この世にはまだまだ説明できないもので溢れている。
そもそも、簡単に「わかる」なんてことが言えるのか。
出来事の上澄みだけに触れてわかったつもりになっているのではないか。
この物語を読んでそうハッとさせられた。
あの出来事がなんだったのかは全くわからないが、はっきりしているのは小翠の健気さである。
この物語で「私」は「わかる」ことを放棄して、「信じる」ことにしたのではないかと思う。
「信じる」は「わかる」よりも不安定で、勇気のいることだ。口では簡単に「信じる」と言えるけれど、心から信じようと思うのはなかなかできることじゃない。
「信じる」ということを考えたとき、小学生のときに流行った「こっくりさん」をふと思い出した。
「こっくりさん」は友人との「信頼ゲーム」だと思っていた。
10円玉の上に指をのせて、こっくりさんを呼び出して質問すると10円玉が勝手に動く……! というホラーを“できるかぎり自然に出す”ゲーム。
「こっくりさん」を遂行できるのは友人たちとのチームワークがあってこそ。誰かが故意に動かしてるな、と思いつつも「手が勝手に…!」と恐怖を演出することが大事。
そうして友人たちから自分が信頼される人間であるかどうか試されるゲームだと思っていた。
純真さのかけらもない思い出にちょっと切なさを覚えるが、この物語は「こっくりさん」をポジティブな方向にとらえたものに近いと感じる。
「信じる」ということはそもそも相手がいないとできない。
妻となった小翠と共有した不思議な体験にどんな意味づけもできないけれど、きっと悪いものじゃない。そう信じようとしたのではないか。
「居た場所」に漂う不穏な空気と不可思議な体験。
何もわからないけれど、小翠の健気さだけを頼りにこの体験を温かなものへと消化しようとする「私」の信頼の物語だと読んだ。
写真は、「居た場所」ってこういうところかなぁ……という妄想写メを(香港です)。