量より質? 大学の質のことか国会議員の質か
大学生の話らしいが、このことを国会議員が発言したというのが面白い!
国会議員の量より質のほうが問題では。
というと的を得た批判のようだが
彼らは選挙で選ばれてくるのだから、国会議員の質はすなわち選挙民の質、国民の質ということだ。
大学生の質より問題は深刻だ。
僕はかつて大学講師の仕事もしていたことがあるので。最近の学生はナットラン!!とぶつぶつ文句言っていた一人である。それでも僕は門戸をひろくして、学問芸術なんでもチャレンジしてみたいという人にはやってみたらよい、それができるという環境はまことに結構だと思う。
最新の情報や正確な知識をより多く提供するばかりでない。考える場所、試行錯誤する仲間が共に集う場所、それらを提供できるか否かが教育機関の質のことだろう。
いろんな選択肢があると思うのだ。世界各国にあるきわめて安価か無料で大学を受講できる、オープン・ユニバーシティの制度はまだまだ開拓の余地、(改善点も)多くあるし。公共図書館の設備と資料も利用し切れていない。一般教養はオープンユニバーシティで学び専門課程は各大学の設備を使うというのは合理的だし。お金と時間に余裕がある人は全日制の大学、時間やお金にゆとりが少ない人はオープンユニバーシティーや夜間の講義を受講するように使い分ければよいだろう。
大学教育というものを、全日四年制大学に偏重し過ぎているのも問題だとおもう。
促成的に専門職のエンジニアやオペレーターを育成するには全日制四年制大学、芸術や哲学はもっと長期的に眺めてみていいだろう。教養学科は常に出入り自由にしておいてよいだろう。
大学で学ぶという、経済的にきわめて高いハードルを設定しておいて、大学でしか取得できない資格を数多く設けるというのは。大学運営と権威付けの助けにはなっても、学問の自由前提からは逸脱しているだろう。
病院で働きながら学び、医師の資格を得る制度があってもいいだろう。
裁判所司法機関、教職、などなどあらゆる国家資格が必要とされる職種には働きながら学びながら、段階的に資格を得る制度があってもいいだろう。
公共図書館を利用して論文を書き、学位が得られる制度があってもいいだろう。
公共図書館の図書検索と貸し出しを広げ、図書館にこれない人も端末から資料が利用できればよいだろう。技術的にも通信インフラや郵便宅配の普及からまったく不可能ではない。
病院に入院中の患者、介護施設の高齢者(高齢者はよく本を読む!)、刑務所や少年院に拘束されて図書館にこれない人。これらの人びとのいる施設に図書検索の端末をつなぎ図書館の本をとどけることはまったく不可能ではないし、公共図書館の役割として理にかなっている。
教育や訓練、大学や学問というものにはもっともっと選択肢と開拓のよちがあるとおもうのだ。
fukuyama katsuya 2012 11