差別のない世界として、前回はトレードの世界について書いたが今回は「ヴァーチャルな世界」に関して書いていきたい。

 広義の意味においてはトレードの世界もヴァーチャルな世界の一つとも言える。そもそも貨幣なる存在自体が日常生活において使用しない限りにおいては、限りなくヴァーチャルな存在とも考えられる。

 手元にある100万円は使うことによって様々な商品やサービスを享受することができるが、証券会社に口座にある100万円は株などを買うための数字であって、日常生活にあっては何ら実際的な意味をなさない。(もちろん口座から引き出すことによって実際的な使えるお金にはなるが)

 

 私は議員という職業柄、SNSを活用するときには実名を使うが、ご存知の通り多くの人々は匿名のアカウントを用いることが多い。

 当然、そこでは匿名性の人格が形成され、リアルな人生とは異なったコミュニケーションがなされる。

 そこでは、言語の問題を除けば年齢、性別、職業などリアルな人生とはかけ離れた主体を獲得することも可能であるし、いついかなる時にインしようがアウトしようが全くの自由である。これはある意味で「差別の存在しない自由な世界」とも言えよう。

 実際、ネット上でやりとりしていた女性が実は男性だったとか、学生だと思っていた人が実はリタイアした大金持ちだったとか(このケースは少ないか、、)、海外在住とされていたが近所に住んでいたとかは、よくあるケースではないだろうか。

 そもそも実人生と紐つけてネット上の人格を考えること自体があまり意味のあることでもなさそうだ。

 

IMG_3756.PNG

 

 これはある議員のVtuber の画像だが、このように公の人でも可愛いアニメの姿で広く訴えかけることができ、かつそれを実践している者もいるという時代である。

 このように普段はリアルな実名を表にして活動している者でも、ネット上はヴァーチャルな姿で登場し、もしかしたらこのヴァーチャルな像の方が広く普及して浸透するかも的な状況である。

 今後技術な発展がさらに進展すれば、このような傾向はさらに加速するだろう。不思議な時代の転換期に私たちは差し掛かっている。

 

 そして驚くべき事。

 ネットに接する時間が増えることで、この自由なヴァーチャルな世界はリアルな世界以上に、人々の人生における価値の重要度を高めてしまう。リアルとヴァーチャルの境界線が曖昧になるのではなく、リアルがヴァーチャルに侵食され主脚転倒を起こすのだ。

 「誹謗中傷」の害悪が世間で話題になっているが、リアルな世界での誹謗中傷に悩むのは理解できるが、ヴァーチャルな世界での誹謗中傷までが問題となっている。

 よく考えるとヴァーチャルな人格がいかに誹謗中傷されようが、そんなものはそのアカウントを消し去ればよいだけの話なのだが、そう思えないのはヴァーチャルな人格が仮のリアル(変な表現か?)になってしまっているからだろう。

 

 少し以前の話だが、私は不思議な体験をした。1ヶ月くらいの期間、あるオンラインゲームにはまっていた。

 そこで3人のゲーム参加者と親しくなった。時間があれば私を含めて大体4人でゲームに参加して遊んでいた。もちろんみんな匿名である。

 ある時、会話の中で他の3人がどのような人物かを知る機会があった。そこで驚いた。一人は専門学校の通う若い男の子(これは想定内)、あとの2人は中学生の男子と女子だったのだ。

 もちろんゲームの中ではプレーに関する会話しかしないから気付きようもないのだが、たとえ1ヶ月という期間であれ、中学生と全人格的な付き合いをしていたなんて。

 さすがに気が引けて自分も大学生であるとかごまかしたが、もし私のリアルな姿を知ったなら、彼らは私が驚いた以上に驚いたに違いない。

 

 これほどまでにヴァーチャルな世界は自由な世界なのだ。精神的な満足感も拡大していくだろう。

 食事をするとか、仕事をしてお金を稼ぐとか、スポーツやセックスをするとか、リアルな世界でしかできないことは多く存在するだろう。

 しかしリアルな世界である程度の資産を築きあげリタイアしたような状況であるならば、ヴァーチャルな世界でヴァーチャルな人格を自由に使いこなすことで、果てしない自由な世界を旅することが可能であろう。

 全世界で起こっている差別反対の抗議デモを眺めるにしたがい、改めて「差別」とは何か、また差別の存在しない社会とは、と考えている。

 人間社会である以上、イジメなどと同様に差別を完全に排斥することなど不可能であろうが、それでも少しでも差別はない方が良いだろう。

 それにしても差別のない社会とはどのようなものかを想像することはできる。ジョン・レノンの「イマジン」の世界などのお花畑の世界の話をしているのではない。あくまでも現実レベルでの想定である。

 いろいろな状況を想定してみたが、確かに差別のない社会は2つ存在していた。そしてそのうちの一つに関しては、私にとっても大変に馴染みの深い世界であった。

 

 それは「トレードの世界」である。トレードとは株式、 fx、債券、商品(コモディティー)などジャンルは様々だが要するに相場の世界である。

 トレードの参加者は、人種、国籍、男女、年齢、職業、学歴、容姿、全てにわたって全ての差別なく市場に参加できる。金持ちと貧乏人の差があるように感じる人もいるだろうが、個人の取引額で相場を動かせるような天文学的な資産を持つ大富豪でもない限り、その資金量は巨大な取引の流れの中にあっては、ほとんど無視できるような要因でしかない。

 そしてトレードには無限の自由度と完全な自己責任論が当てはまる。どれくらの資金を投入するのも自由、いつトレードを開始するのもいつ閉じるのも自由、その行為にはトレード以外の属性による影響は全く受けない。

 また時間的な制約もない。この時間、この瞬間、全世界のトレード参加者(アメリカ人もインド人もフランス人も、もちろん日本人も)が、同じ値段と同じチャートの為替やゴールドの値段、アップルやトヨタの株価を眺めているし、その仕組み自体が完全にフェアな世界なのだ。

 そこには一切の差別は存在しない。逆に言えば、一切の配慮や忖度もない非常にシビアな世界なのだ。

 

 私は若い頃からトレードが趣味で、今でもなにがしかのトレードをしている。

 これはお金儲けのためではない。もちろん損をするのは嫌だから、その本質はお金儲けであろうが、それ以上の意味でも趣味性がある。

 それは何か?

 トレードは「自分自身に向き合う」ための場であるからだ。トレードの極意はテクニカル分析などの知識や経験などではない。

 心理学的な意味で、自分の心のうちにある「欲」と「恐怖」との戦いであるし、自分自身の心情をいかにコントロールできるかである。

 だから私は常に自分に向き合い自分を知るためにトレードを行っている。そこはいかなる差別も存在しない、極めて内的な世界なのだ。

 

 もう一つの差別の存在しない世界。それは「ヴァーチャルな世界」だろう。これについては次回に書いていきたい。

昨年の暮れから、主にTwitterをやっていたのでブログで文章を書くことが少なくなっていたが、やはり観念的な長文にはブログの方が適しているので再開することにしました。