差別のない世界として、前回はトレードの世界について書いたが今回は「ヴァーチャルな世界」に関して書いていきたい。
広義の意味においてはトレードの世界もヴァーチャルな世界の一つとも言える。そもそも貨幣なる存在自体が日常生活において使用しない限りにおいては、限りなくヴァーチャルな存在とも考えられる。
手元にある100万円は使うことによって様々な商品やサービスを享受することができるが、証券会社に口座にある100万円は株などを買うための数字であって、日常生活にあっては何ら実際的な意味をなさない。(もちろん口座から引き出すことによって実際的な使えるお金にはなるが)
私は議員という職業柄、SNSを活用するときには実名を使うが、ご存知の通り多くの人々は匿名のアカウントを用いることが多い。
当然、そこでは匿名性の人格が形成され、リアルな人生とは異なったコミュニケーションがなされる。
そこでは、言語の問題を除けば年齢、性別、職業などリアルな人生とはかけ離れた主体を獲得することも可能であるし、いついかなる時にインしようがアウトしようが全くの自由である。これはある意味で「差別の存在しない自由な世界」とも言えよう。
実際、ネット上でやりとりしていた女性が実は男性だったとか、学生だと思っていた人が実はリタイアした大金持ちだったとか(このケースは少ないか、、)、海外在住とされていたが近所に住んでいたとかは、よくあるケースではないだろうか。
そもそも実人生と紐つけてネット上の人格を考えること自体があまり意味のあることでもなさそうだ。
これはある議員のVtuber の画像だが、このように公の人でも可愛いアニメの姿で広く訴えかけることができ、かつそれを実践している者もいるという時代である。
このように普段はリアルな実名を表にして活動している者でも、ネット上はヴァーチャルな姿で登場し、もしかしたらこのヴァーチャルな像の方が広く普及して浸透するかも的な状況である。
今後技術な発展がさらに進展すれば、このような傾向はさらに加速するだろう。不思議な時代の転換期に私たちは差し掛かっている。
そして驚くべき事。
ネットに接する時間が増えることで、この自由なヴァーチャルな世界はリアルな世界以上に、人々の人生における価値の重要度を高めてしまう。リアルとヴァーチャルの境界線が曖昧になるのではなく、リアルがヴァーチャルに侵食され主脚転倒を起こすのだ。
「誹謗中傷」の害悪が世間で話題になっているが、リアルな世界での誹謗中傷に悩むのは理解できるが、ヴァーチャルな世界での誹謗中傷までが問題となっている。
よく考えるとヴァーチャルな人格がいかに誹謗中傷されようが、そんなものはそのアカウントを消し去ればよいだけの話なのだが、そう思えないのはヴァーチャルな人格が仮のリアル(変な表現か?)になってしまっているからだろう。
少し以前の話だが、私は不思議な体験をした。1ヶ月くらいの期間、あるオンラインゲームにはまっていた。
そこで3人のゲーム参加者と親しくなった。時間があれば私を含めて大体4人でゲームに参加して遊んでいた。もちろんみんな匿名である。
ある時、会話の中で他の3人がどのような人物かを知る機会があった。そこで驚いた。一人は専門学校の通う若い男の子(これは想定内)、あとの2人は中学生の男子と女子だったのだ。
もちろんゲームの中ではプレーに関する会話しかしないから気付きようもないのだが、たとえ1ヶ月という期間であれ、中学生と全人格的な付き合いをしていたなんて。
さすがに気が引けて自分も大学生であるとかごまかしたが、もし私のリアルな姿を知ったなら、彼らは私が驚いた以上に驚いたに違いない。
これほどまでにヴァーチャルな世界は自由な世界なのだ。精神的な満足感も拡大していくだろう。
食事をするとか、仕事をしてお金を稼ぐとか、スポーツやセックスをするとか、リアルな世界でしかできないことは多く存在するだろう。
しかしリアルな世界である程度の資産を築きあげリタイアしたような状況であるならば、ヴァーチャルな世界でヴァーチャルな人格を自由に使いこなすことで、果てしない自由な世界を旅することが可能であろう。