最近、政治がほとほと嫌になった。と言うよりも、もっと広く社会的な活動が嫌になった。

 こんなことを愚痴っぽく書くと、「何か辛い事でもあったのだろうか」とか「気力が衰えるなんて情けない」と思われるかもしれないが、個人的な生活(政治的な活動)においては、何らストレスを受けるようなことはない。

 ただ、現在の世の中の動き、その気分とでもいうのか、社会的な風潮を眺めていると嫌気が起きてくるのだ。

 

 「さくらを見る会」だの「3000円のパンケーキ」だの「身の丈発言」だの、政治的な議論の本質から逸れたところでの政治闘争が盛んだ。これは攻撃する野党側がバカなのではなく、おそらく一般大衆のルサンチマンに訴えた方がより効果的だと判断しているからだろう。

 そして当然のことながら、一般大衆相手の商売であるマスコミもこの流れに乗ってくる。

 

 いったいいつからだろう、多くの人々がルサンチマンに共感して、そのルサンチマンをエネルギーに社会が動くようになったのは。

 古来、日本人は「恥」を規範の中心にそなえ、他者を妬むという感情は慎むべきものとしてきた。

 現在ではこのような貴重な伝統的な価値観は消え失せ、多くの人々が恥もなく他者を妬み、何とか恵まれておいしい思いをしている他者を引きずり降ろそうと躍起になっている。そしてそれは往々にして社会的な正義の仮面を被っていることも達が悪い。

 仮にどんなに表面上は正しいことを言っていても、その性根こそは腐っていると思う。そこには真に発展的な展望はない。

 

 それにしても、ルサンチマンを訴えることが良いなんていう社会は、逆の見方をすれば平和で安定している、そこそこ幸せな社会なのかもしれない。

 本当の意味で紛争、貧窮、安全が脅かされているような状況では、誰も他者と比較してのルサンチマンなど感じている余裕はないだろう。それぞれの現状を乗り切るだけで精いっぱいだろう。

 たとえば、社会がそうでなくても、個人的に大怪我をしたり大病を患うようになれば、意識の大部分が自分にだけ向かうのでルサンチマンどころの話ではなくなるはずだ。

 

 このような時は、いたずらに世の中の風潮に流されるのではなく、たとえ孤立しようとも自分のするべき仕事に取組み、正しいと思うことを静かに訴えていくのが良いのだろう。

 先日、SNS上で何気なく呟いた意見が、炎上して多くの批判を浴びた。もちろん賛成という声も多くあったのだが、批判してくる声がどれもヒステリックなのには驚いた。

 私がSNSをやっていなかった理由の一つ、twitterなどはしょせん140文字で表現するため前後の背景が抜け落ちてしまう.。そのため短い言葉に過度に反応されがちというマイナスの壁にぶちあたったわけだ。

 

 そもそもの呟きは、養育費の支払い拒否をされているシングルマザーに対して、「なぜそんな奴と結婚して子供まで産んだのか?」と言いたいという発言だ。これに対して経済的に苦しいシングルマザーに酷い」という思いから批判が湧きあがったのだろう。

 この一文からすれば、そういう意見が出るのもわかる。ただ、前提としてその元夫は離婚する前から仕事をせずに家にお金を入れていない状態であったことも書いてあるのだ。そんなダメな奴と結婚して子供を産むこと自体が、女性の判断ミスだという意味で呟いた。

 結婚した男が金を稼がず離婚後の養育費を支払わない、もちろん悪いのはまずは男の方だが、そんな奴を自分の子供の父親にした女にも責任があり、一番かわいそうなのは子供だと言いたかった。

 世の中にはレアなケースもあるだろう。「真面目に働いていた夫が事故にあって収入がなくなった」とか「高収入を得ながら自分の子供へのお金さえ無視するという極めて冷酷な悪人」とか。

 ただ私が取り上げたケースは、もともと結婚する前から無職で、結婚してからもギャンブル狂いで借金を作り、ほとんど家に金を入れない、そして男の実家も同様に経済的に崩壊していて援助など期待すべくもない、そんなケースだった。こんな状況で養育費が得られるわけもなく、差し押さえしようにも相手にはそんな金すらないという状況だった。

 だから、そもそも「どうして結婚して出産したのか?」という話なのだ。生れてくる子供が一番不憫なのだ。このような不幸を避けるために、「結婚や出産には慎重になりましょう」という意味での発言なのだ。

 

 男性が稼いで女性を養うという事が正常な家庭の姿だと押し付けるつもりもない。

 「女性がバリバリ働いて、男性が主夫として家庭を切り盛りする」(このように表現すると、何か強く怖い女性というイメージがあるが、私の知っている限りこのような女性は優しくチャーミングなことが多い)とか、「女性の実家が大資産家で働かなくても何ら困らない」(このケースもよくあるが、夫婦で学術や趣味に生きていて、それなりに幸福そう)などなど、家族には様々なケースがある。

 しかし、そうではない場合は、きちんと将来を見据えて結婚や出産を考えなければいけない。

 

 結婚は恋愛の延長線上に考えてはいけない。「金を稼がない男」にも、その以外の魅力があるから恋愛は成立したのだろう。

 その魅力、「かっこいい」とか「イケメン」とかの他にも、「癒される」「ワタシをわかってくれる」「夢を追っている」などいろいろあるだろう。それはそれで良い。

 しかし、結婚をするならばそれらのプラスの部分とセットになった経済的な苦境というマイナス部分も引き受ける覚悟なければならない。ましてや、子どもを産み育てるというのであるならば。

 苦境に陥って泣き言をぶちまけたい気持ちは察するが、それはしょせんは詮無い話というものだ。

 これは男女逆の場合も同様だ。「美人だけど金遣いの荒い女」や「優しく家庭的だが、いっさい外で仕事をしたがらない女」と結婚するようなこともあるだろう。

 

 こういう話を書いていくと、「結婚、出産も自己責任か?」と反論する人もいる。

 世の中には「自己責任」という言葉を極端に嫌う人々がいる。

 生きていれば自然災害や犯罪被害など、自己責任を言えないような問題もある。

 またブラック企業や就職氷河期など社会的なもので、すべてを自己責任で済ませられないような問題もあるだろう。

 しかし結婚や出産というプライベートなことは、やはり自己責任の範疇で考えなければと思う。

 これは何も「働かない夫」の問題だけでなく、古くからある「嫁姑」の問題でも同じだ。

 私の政治活動、というよりも人生においても最大の価値としていることは、「フェアである」ことだ。

 

 最近日韓問題が騒々しいが、それに付随してヘイトスピーチというものも取りざたされている。私は個人的にはどのようなものであれ、ヘイトスピーチは下品であるので嫌いだが、その良し悪しを巡っての議論も耳にする。

 よく、「日本死ね!」だの日本をヘイトするものは表現の自由として容認するが、反韓を煽るようなものはヘイトとして規制するべきだと主張する人々がいるが、これはまったくおかしな話と言えよう。

 同じような言動や行為でも、片方は容認され片方は糾弾される。このことに対する矛盾には目をつむる人々は、よく「非対称性」という概念を持ち出して説明しようとする。おかしな論理である。

 つまり日本が植民地支配をしてきたのだから、それらは同一の地平で考えるべきではなく、非対称性をもって不均衡に考えられるべきだという主張である。

 そして、この「非対称性」の論理こそ、最も私が嫌うものだ。どうして自分の責任ではないことが原因で、自分が不利でアンフェアなポジションに立たされなければいけないのか?

 韓国の植民地支配に関しては、自分には何の責任もないことで(私は現在50代だが私より若い世代の人々はなおさら)、非対称性なる考え方で不利を押し付けられることは我慢ならない。

 

 日韓問題におけるヘイトがわかりやすい例なので最初にあげたが、この「非対称性」なる毒は様々な分野で垣間見られる。少数弱者やマイノリティーに関する問題でも、非対称性の毒は忍び込む。

 障がい者、LGBT、シングルマザーなど、当然のことながら私は、これらについて何ら偏見もないし差別もしていない。ただ、これらに関する時に非対称性を持って対峙されると、「?」となってしまう。

 

 さらには、マイノリティーでも弱者でもないものについても、非対称性が持ち込まれることがある。

 俗に「子育て様」とも言われる問題。「子どもがいないのに」とか「子どもなんだから」とか「子育ての立場から」とかを持ち出されて、すべて無条件にこちら側がマイナスのハンディを負わされてしまうこともある。

 それがたとえ心情的には理解できるようなことでも、このような特権意識をもって非対称の議論をされると引いてしまう。

 

 また、この非対称性は逆のパターンで襲ってくることもある。

 自分の職業柄、よく言われることに「議員なのだから」「公人として」というものがある。

 もちろん私にしても極端な個人攻撃、誹謗中傷、人権無視の議論はしないのだが、それでも細かい言葉尻や表現を上記のような非対称性で攻撃されると、その時点ですべてのコミュニケーションや接点を避けたいと感じてしまう。

 政治家だからと言って、公式の場(本会議など)以外で萎縮して何でも自由に言いたいことが言えないというのは、本当におかしなことだと思う。

 最初に戻るが、私は「アンフェア」な状況が一番嫌いなのだ。

 だからこれからも気にしないで、言いたいことは自由に発言したい。たとえそれで「炎上」にでもなって、選挙に落選するならば、潔くこの職を辞していきたい。