最近、SNSで議論する事を前回書いたが、そのテーマは子供に関するものだった。

 「公道で水遊びやBBQを子どもにさせる」だとか「夜の居酒屋に子連れで呑みにくる」だとか「騒ぐ子供を注意しない」だとか、よく日常生活において出くわすケースに関する話だ。

 この話だけだと、「周囲に迷惑をかけることを何とも思わない非常識な親」(迷惑に思う人からの見方)と「子育ての大変さを理解しようとしない不寛容な人々」(子育てをしている親からの見方)との対立のような気がするが、それでは何か腑に落ちないものを感じていた。

 傍若無人な子どもを非難する人も、「子ども」自体を嫌っているわけではないし、「子ども」そのものを排除しようと考えているわけではないだろう。また、子どもの親だって自分たちが周囲にまったく迷惑をかけてないとも思っていないだろう。

 要は、昔のように子供でもある程度厳しく育てる、また己が子育てをしている親だという自覚を持って生活すれば良いだけの話だが、現実の世界ではこのようにはならない。

 

 そんなことを考えながら、ある知人とこのテーマで話してみた。

 「のづさんも別に子どもを嫌っているわけではなく、子育てに関してルーズな親に腹立たしいのでしょ。」

 「そうだ、子どもには罪はない。しっかりしない親が社会に迷惑をかけることが問題だ。」

 「大多数の親は今でも普通に文句もこぼさず子育てに向き合っているから。」

 「一部の理不尽な特権意識を振りかざした人々が厄介なだけだが、昔も一部の人々は非常識な親だったし。」

 「その一部の顔をしかめられるような存在が調子に乗って大声を出していると。」

 「その通り、何なんだろうな、この社会的な雰囲気は?」

 「結局、のづさんが嫌っているのは、一部の子育て世帯のヤンキー気質なんじゃないかな。」

 

 ここまで会話を進めて腑に落ちた。私がもやもやとしていた嫌な対象とは、このヤンキー気質なんだろう。

 ヤンキーやヤンキー気質なるものに明確な定義はない。そもそも気分的な要素が強い表現なので理論的な枠組みなどもない。それでも言葉のニュアンスとしては十分に伝わる。そこが政治的な言葉としての、「ネトウヨ」とか「反日」とかと違うところだ。

 それにしても、ここ数十年の間にヤンキー気質なるものはじわじわと日本社会を浸食してきた。もともとが論理的に定義できるものではないある種のノリや属性であるために、知らない間に蔓延してしまったのだ。これが社会劣化の原因だとは。

 

 子供や子育てには直接関係ないが、最近話題によく上がる「煽り運転」なども、このヤンキー気質の延長線上に考察することも可能ではないだろうか。事件の映像などを見ても、多くの人々がヤンキーを連想しただろう。

 

 かつてのように親や学校、社会のような上部的な権威や圧力が緩くなると同時に、このヤンキー気質なる毒が日本社会に蔓延してしまったことを考えると由々しき状況とも言えよう。かつては社会から白い目で見られていたヤンキー気質が、世の中に市民権を得ようとして冗長しているのが現在だろう。嫌な話だ。

 

 そしてこの問題(ヤンキー気質の蔓延)を許してきたのは、ほかでもない現在の学校現場なのだ。

 「いじめ」などのより深い闇を考えると、この問題を見過ごすわけにはいかない。