格差をことさらと強調する社会(つまりは格差の存在を問題視する社会)では、弱者やマイノリティーが「売り」として強調されるようになる。

 

 参議院選挙で各地に出向いて、公営掲示板のポスターを眺めていると、いささか妙なアピールをしている候補者を散見する。それも公の大政党だったりする。

 ここで一つの例をあげたい。候補者本人には何も恨みはないし、彼自身もその政党も頑張っているのだろうから、あえて実名を書いて候補者の足を引っ張るつもりはない。だからこんなことを訴えている候補者がいるということを、匿名の形で示していたい。

 以下は公営掲示板に候補者の名前と顔と共に書かれた文章だ。

 

 「社会人となったとき、自分の実力のなさを痛感しました。失敗を繰り返していく中で、仕事に対する気力を失っていきました。眠れぬ夜が続き、出勤もままならなくなりました。

 もともと私は、幼少期、身体が小さく意気地なしでした。人と話すのが怖くて、劣等感の塊のような子どもでした。

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 私は弱い人間です、今の社会、偏見や差別、暴力は弱いところに集中します。社会の歪みが弱い立場にある人を生きづらくしています。その場所に身を置いてきた私は身をもってそのことを知っています。

 この際、その歪みを正したいと決意しました。

 弱いものが負けるしかない時代は終わり、お互いの違いを認め合うような社会がすぐそこまで来ていますと信じたい。

 私としては、「弱い立場の人たち」の代弁者として、負けられない気持ちがいっぱいで震えています。」

 

 いったいこれは何なんだ?

 新聞の投書蘭の文章やどこかのエッセイならばいざ知らず、国家の代表を選出する選挙のアピール文なのだ。

 私などは一般的にリーダーは公平誠実であると同時に、強く不屈な精神を持っている者がふさわしいと思うが、どうもそうではないらしい。

 強さや逞しさをアピールするよりも、弱さや劣等感をアピールした方が、有権者の票を獲得しやすいとの戦略から、この候補者や所属政党は、このような不自然な文章を掲載しているのだろう。

 弱さやマイノリティーが一定の売りになると同時に、強い者は嫌われる社会的な雰囲気があるのだろう。

 ここにも一般大衆のルサンチマンの影が見え隠れする。

 

 それにしても?

 普通に考えて、仕事のストレスで不眠になり出勤もままならないような人に一票を投じて、自分たちのリーダーになってもらいたいだろうか? 

 強く逞しく、いかなる困難にも立ち向かうような人にリーダーになって欲しいと思う、私は変なのだろうか?

 

 リーダーに「頼りがい」が求められなくなった時代なのだろうか。

 本当に危機意識のない、平和ボケ、欲ボケした社会だ。

 選挙で選ばれる政治家に限らず、すべての共同体のリーダーは強い人物でないと、その共同体は衰退していく。

 発展のためには、強い人物が必要なのだ。

 しかし現在の日本においては違う。 社会の発展よりも、現状における格差の是正が求められている。

 「社会全体として、上向きか下向きかは関係ない、現状において他者との格差は耐えられない」という精神構造なのだろう。

 

 このようなメンタリティーが生まれることは理解できなくもないが、やはりこれは間違っている。

 社会全体が向上すれば、弱者に対する余裕やいたわりは増すし、社会全体が低下すれば、まず弱いものから切り捨てられていくのが、人間社会のみならず生物界の常なのだ。

 だから、まず私たちは強く優秀なリーダーを選出して、現状を良い方向に変革していかなければならないのだ。

 

 そもそも、こんな当たり前の話を書いている状況が不幸だと思う。