「悪意の人」とは、いかなる存在か?

 

 若い時代から20年近くにわたり、この議員という職業に就いてきて、つくづく思う事、それはこの世の中には、「悪意の人」が何と多いことかという悲しい事実である。

 ここで職業柄とことわっているのは、この議員という職業は、他の一般的な職業よりも大勢の人々と接する仕事であるからだ。

 こんなことを書き始めると、「何と悲観的な!」とか「あなたは性悪説に立っているのか?」とも批判されるようだが、ここで私がこれから書きたい一連のテーマにとって、理解される意味の食い違いが生まれるといけないので、いくつかの定義をしたいと思う。

 

 私は「悪意の人」と書いた。この悪意の人というのは、世間からいわゆる悪人と呼ばれている輩ではない。

 この広大無窮な人間世界においては、「善人」「善意の人(まぁ、これは善人ではないが、悪人でもなく悪意も持っていない人のこと、よく「善意の第三者」という言葉も使われるではないか)」「悪意の人」「悪人」「非社会的な人」が存在する。これは、いささか抽象的な分類ではあるが。

 私がここで問題にする層は、この中でも圧倒的に構成比率が高い、「悪意の人」についてである。

 

 ここで、私が考える「善人」「善意の人」「悪人」「悪意の人」「非社会的な人」について、簡単に説明を加えたい。

 

 「善人」:これは文字通り、良い人である。道徳的にも、人間的な温かみに関しても、良い人である。何も社会的な地位や責任を担うような立場ではなくても、まわりの家族や地域の人々から愛される偉大な市井の人物である。まさに希少な少数者。

 

 「善意の人」:このタイプは、まったくの善人ではないが、悪意をもって人に接することのない穏やかで円満な人である。他者や社会のためにボランティア精神を発揮したり、自己犠牲で何かに尽くすことはないが、けっして不必要に他者や社会を傷つけたり、悪意を持って他者を眺めたりはしない人である。普通の善良な市民であるが、意外なことに、このタイプは少ない。

 

 「悪人」:これも文字通り、悪い人である。ヤクザ、変質者、犯罪者気質の奴、ヤケクソの破滅論者、狡猾に周囲に害を及ぼす者、性格異常のサイコパス、出自からして生粋の反社会的な輩、誰もが想像するようなワルである。このタイプに属する連中も、そんなに多くは存在しない。

 

 「悪意の人」:これが現在問題としている層であり、社会における構成比率は最も高いと思われる。確信的に悪を成すことはないが(これも良心の問題というよりも、社会規範や法律による刑罰によって抑制されているとも言えるのだが、、、)、他者や社会の不幸を喜び、なんとか人の足を引っ張ってやろうと思いながら、日々鬱積と憎しみを抱きながら世界と接する人である。

自己中心的な人物像の代表格であるが、自分の利益のために日々努力研鑽するのではなく、ひたすら他者が失敗して下降することで、自分の相対的な充実を願おうとする人である。

 

「非社会的な人」:あまり他者や集団、社会に関わろうとしない人。隠者でもあるし、たとえ何がしかの社会的な立場にあろうとも、自分以外の者には無関心である人。当然、広く社会に対しても何らかの思いすら抱かない人である。いわゆるオタクであろうがなかろうが、このタイプの人は一定数は存在する。

 

 このような類型化によって、私がテーマにしたい「悪意の人」についての輪郭がつかめていただけたであろうか。