さあ、始めよう。人の悪意の物語について。

 そもそも私が人の悪意というものに関して強く考えるようになったのは、自分の職業(政治関係)がきっかけである。

 建前の上からも、素朴な心情の上からも、政治に携わる者は、人々やその総体としての社会の幸福を考えて行動しなければならない。これは言い換えれば、人々の不幸や社会の矛盾をなくすということである。

 

 現代社会において、何が人々の不幸の源であるのか。もちろん、老い、病気、死といった、人間として避けることができない運命は除外して考える。

 半世紀前であるならば、多くの人々は「貧困」や「社会構造の矛盾」ということを自明のこととして訴えたであろう。

 しかし、地球規模での話ならいざ知らず、私たちが暮らす日本をはじめとする先進資本主義世界では、マルクス主義など死語に近いし、誰もが前世紀の壮大な社会実験でもあった共産主義などを夢想することはないだろう。

 貧困、確かに飢餓に苦しむような絶対的な貧困はなくなったが、相対的な意味での経済的な格差は存在するであろうし、またそれがグローバル化の進展にともなって拡大していると指摘する向きもあろう。

 おりしも現在新宿区議会は予算特別委員会が開催中である。

 私も委員の一人として予算審議に参加しているが、幾人の議員はやはり「相対的な貧困」の問題、それがわずかな差異でしかないような些細な問題であろうとも議論のテーマとして取り上げている。

 あたかもこの相対的となったであろう現代版の貧困こそが、人々を不幸にする根源的な問題であるかのように。

 

 そりゃあ、貧乏であるよりも、いくらかでも金持ちである方が幸福感は増すだろうし、金銭的な援助が多少は人々の不幸の度合いを和らげることもあるだろう。

 しかし、私は言いたい。現代社会において、人々に不幸を運ぶ最大の要因は、「貧困」などではない、それは「人の悪意」である。

 それもどこかの国の独裁者や業突く張りな経営者や意地悪な支配階層ではなく、私たちのすぐそばで暮らす市井の一市民の抱く人間的な悪意なのだ。それも大勢の人々が当たり前に抱く悪意なのだ。

 

 いじめ、いやがらせ、セクハラ、蔑み、酷くは差別、偏見、批判、誹謗中傷などなど、人々の悪意によって、私たちの幸せな生活は脅かされる。

 悪意よりも消極的なものでも、無理解というものもあえるし、もっと間接的なものとしては、「愛されない」「好かれない」、さらには嘲笑、軽蔑ということもある。

 ともあれ、私たちの身近に暮らす市井の人々の悪意こそが、私たちの幸福をさいなんでいくのだ。

 

 あなたも自分の現在を見つめ、過去を振り返ってみよう。

 いかに周りの連中の悪意ある言葉や行動によって、生きづらい日々を理不尽に押し付けられてきたことか。

 また、誠実な信頼関係や人間的なぬくもりや触れ合い、極めれば、愛し愛され、慈しみあうことを求めながら、心ない悪意によって、裏切られ傷つけられてきたことか。

 ACジャパン(日本広告機構)の陳腐なCMに描かれているような、いかにもわざとらしい人と人との温かい関係など、現実に自分たちが生きてきた人生においては、まったくの絵空事であったことか。

 

 そう、私はここで断言しよう。

 現代社会において、人々の不幸の源は「人の悪意」なのである。

 たまにまれに、そのような人々の悪意とは無縁であり、周囲からのあふれる善意によって暮らすことができる者もいるだろう。

 しかし、そんな人は例外だ。そして、そのような場合でも、それは若い時代までだ。愛くるしい幼子が、周囲の愛と善意に囲まれて、人生の一時期においてすくすくと育つようなものだ。

 

 幸福に生きるためには、悪意の人を見極めて、悪意の人とはなるべく関わらないことだ。

 

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「三月になりましたね。三月初旬といえば、梅の季節ですね」

 

 私は昔から梅の花が好きだった。特にその仄かな匂いがいとおしい。

 欺瞞に満ちた人人との触れ合いに気を病むよりも、梅の香りに永く待ち焦がれた春の訪れを感じる方が、人間本来の安逸を得るものだ。

 この重要な真実について、幼い頃から思うことができるか否が、平穏な幸福への分かれ道だろう。