前回は、「モノの価値は時間の経過とともに低下する」というような趣旨の話を書いた。

 これは少年時代、青春時代、大人になってからというように、個人が辿る人生の経過という時間枠だけでなく、たとえば「1年、3年、5年、10年」という客観的な時間の枠においても同様に当てはまることだ。

 

 いくつかの理由をわかりやすく書きたい。

 

 まず第一に。

 モノを獲得、そして所有する主観的な喜びは、最初がもっとも強く、時間の経過とともに薄れていく。これは誰もが体験することだろう。

 ない時は欲しくて仕方がないが、一度手にすると飽きてしまう、またそのモノのありがたみが薄れてくる。よくある話だ。

 これについては、物理的なモノだけでなく、社会的な立場や地位など、または幸福な家庭、良好な人間関係などについても同様だ。

 人間とはかくも欲深い存在である。いったんモノを所有すると、時間とともに感謝の念も薄れていくものだ。

 

 そして第二に。

 いかなるものでもモノは時間と共に劣化していく。中には骨董品や美術品などのように、時間の経過とともに価値を増していくモノもあるだろうが、車、家電製品、ブランド物、さらには家なども、ほとんどのモノは時間が経つと古くなり、その外観も機能も劣化する。

 さらには新製品が次々と登場することによって、新品のモノでも社会的には陳腐化の末路を辿る。パソコンなどが良い例だろう。

 

 さらに第三に。

 これがもっとも重要な点だが、モノを所有することにはお金がかかることが多い。くだけて言うならば、モノの所有、維持、管理には経費がかかるということだ。

 たとえば車を所有していると、車検代、税金、駐車場料金など様々な維持費がかかる。別荘を所有していても、同様に管理にまつわる様々な経費が必要とされる。

 なんせ自分が掃除して住んでいる家にさえ、固定資産税などの税金がかかってくるのだから。

 この経費は馬鹿にならない。手に入れた時は、喜びもあるしモノも新しいから気にもならないだろうが、時間の経過とともに古く陳腐化したモノを維持するために、いくらかでも経費をかけることは苦痛以外のなにものでもない。

 特に使用しなくなっているならばなおさらのことだろう。

 たとえば高原の別荘など。自分たちがまだ若く、そして子供たちが幼く、学生時代であった頃は、家族の誰かしらが頻繁に利用して楽しんだモノでも、子どもが独立した老夫婦にとっては無用の長物でしかないだろう。

 利用しなくなって久しいが、年会費だけは引き落とされているスポーツクラブの会員権なども同様であろう。

 

 つまり、モノの価値を時間的な経過の中で考えた場合、そのものが生産手段として金銭を生み出すモノ(たとえば工場の機械や店舗など)か、もしくはキャピタルゲインが期待できるモノ(値上がりが確実に見込めそうなマンションなどの不動産)以外は、モノの所有は不利に働くのである。

 この点、お金は逆である。たとえ現在が超低金利の時代とはいえ、預金にしろ債券投資にしろ、時間の経過とともに確実に増えていく。

 

 それでもモノを人々が欲しがるのは、個人的な自己満足(ブランド物に身をかためてイケてる自分、新車を購入して気分爽快、やはり一国一城の念願のマイホームなどなど)のためであろう。

 このことに気が付き始めた人々が増えてきているから、「シェアリング・エコノミー」なることが流行するのであろう。

 これからの時代は、「モノは所有ではなく、利用だ!」ということだ。