前回から、モノの価値について書いているが、その中でビットコインをはじめとする仮想通貨はについては、貨幣や通貨ではなくモノに近い性質であると訴えたが、その続編。
昨年末に急騰したかビットコインの価格であるが、年明け暴落して、現在は120万円くらいと少し値を戻したところで落ち着いている。
ここから再度、暴落していくかどうかはわからないが、この先はある程度は値を戻すかもしれないが、短期的には昨年の高値を超えた高騰をすることはないだろう。
長期的な話についてはわからない。
神のみぞ知るということだが、このまま長きにわたって価値が上昇していくとは思われない、というよりも私は思わない。
この点に関して書いていきたい。
そもそも現在話題となっているコンピュータ上の仮想通貨が、未来の世界で本物の通貨として、現在各国中央銀行が発行している通貨にとって代わっていくとは考えられないからだ。
仮想通貨を支持する人々は、現在の国家による通貨に対する不信感からか、仮想通貨を未来の経済社会における通貨としてとらえたがっている。そこには一つの思想があり、一つの哲学がある。(これはかつての共産主義のようだ)
「仮想通貨は、将来は現在の各国通貨をしのいで、新しい通貨の地位を得るだろう!」と訴える。
何を世迷言を言ってるのだろう。
それでは、私はどうして仮想通貨が現在の通貨にとって代わることが不可能と考えるのか、その理由から書いていきたい。
それは発行主体が存在しない、もしくはあやふや、もしくはプライベートなものだからだ。簡単に言ってしまえば、国家という主体のお墨付きがないからだ。
ある者は言うだろう。「それならば1970年代以降、各国中央銀行の貨幣には「金」の裏付けがある兌換紙幣ではないのだから、仮想通貨と同様ではないのか?」
その点については正しい。かつてのように裏付けのないまま貨幣による信用経済は膨張を続けている。だから最近は「金」の価格が上昇しているのだ。「金」はモノの代表格であるから。その意味からすると価格が上昇している仮想通貨も、やはりモノなのだ。
すべての現象は、現在の既存の貨幣に対しての不信感からきているのだろう。
そして、ここに大いなる錯覚が存在する。
それは「国家が管理する現存の貨幣への不信感」と「国家そのものへの不信感」は同一のものではない。
仮想通貨を信奉する人々は、現存貨幣のみならず、現存の国家へのアンチテーゼを価値観の中に持つことが多い。つまり経済(ここに社会も加えてよいが)のグローバル化の進展によって、既存の国家の役割、しいては枠組みの重要性が薄れていく、そんな自由でフラットな世界を夢見ているのであろう。まさにインターネットの生み出した幻想というべき考えだ。
現存の国家はけっして重要性をなくさない。これは明白な事実だ。
そもそも国家の本質、国家の秩序を形成するべき本質とは何か?
国に暮らす人々の意識や考え、それに付随する富や経済活動ではない。
国家の本質とは、まさに国家の有する暴力機構(警察、軍隊など)である。
現在の国家は、そのほとんどが民主主義による法治国家であるから、国家の有する暴力機構は日常生活では見えにくくなっている。(不当な冤罪で逮捕でもされないかぎり、国家の持つ暴力機構は一般市民にとっては無色透明な存在なわけである)
暴力機構という表現があまりにも生々しくてピンとこないならば、政治的な権力構造と言葉を置き換えてもよい(なんせシビリアンコントロールのもと、現実的な暴力機構の行使は政治的な権力構造によってなされるわけであるから)。
政治的な権力構造は立法を司る(法律ならば国会が、条例ならば地方議会が)。これが法治国家の原則であり、すべての社会的な活動はこの枠のうちに留められている。
ビットコインが急落した原因の一つに、各国政府による過熱した投機的な動きに対する規制ということが指摘されているが、原因の一つどころか、これこそが仮想通貨の最大のウィークポイントなのだ。
そう、「国家によって規制されてしまえば、すべてがおしまい」という運命にあるのだ。
これが、従来のモノの代表格である、「金」や「プラチナ」との大きな違いだ。
「金」の保有や売買などは、どうあがいたって100%の規制など不可能だ。何しろ、すべての国民の所有を把握などできないし、すべての国民の行動を監視することもできないのだから。
それに対してコンピュータ上の仮想通貨は100%に近い規制が可能である。取引所で換金する(円やドルに換える)所の入口と出口が限定されているためだ。
ゆえに仮想通貨は、暴力機構に支えられえた国家の前にはほとんど無力であろう。キプロスとかエストニアなどの小国に対してはある程度のプレゼンスは誇示できるだろうが、現在の経済活動の中心にある大国(これには当然のことながら日本も含まれる)には対抗できない。
仮想通貨の時価総額が数十兆円になろうが、国家の暴力機構の前には塵にもならない。
これが現実である。
ある者は、このような反論をするだろう。
「現在の情報化、グローバル化が進めば、人々の意識も変化して国家そのものの役割も低下するだろう、格差のない、また貧困のない、個人個人が自らの目標とライフスタイルを確立して、人々との間に相互に分かち合えるような共同意識が生まれれば、警察や軍隊といった国家による暴力機構の必要性も薄れていくだろう。そうなれば管理する経済ではなく、自由な経済の一翼を担う仮想通貨の重要性は増すだろう」と。
これなどは、さらなる酷い世迷言と言えよう。
あなたは、現在の国家による暴力機構が支配する(言い方を変えれば政治権力が統治する)法治国家のありがたみをきちんと理解しているのだろうか?
もし、国家による暴力機構が存在しなければ、この世は緩やかな理解の連帯などではなく、まさにアタタッタ~の「北斗の拳」に描かれる荒涼とした世界になるだろう。
そこでは人々の相互理解どころか、殺戮、強奪、強姦が繰り広げられ、世界は何でもありのむき出しの弱肉強食の阿鼻叫喚地獄になるだろう。
仮想通貨もクソもない世界だ。(現在でも世界の一部、紛争地帯などでは現存する世界だ)
またある者は、このように反論するだろう。
「国家の力と言っても、それは現在の民主主義国家においては、国民(有権者)の意思の集約なのであるから、大多数の国民が望めば、仮想通貨は社会から承認されるのではないか」
確かに、その通り。多くの国民が望めば、そのようになるだろう。
それには、少なくとも国民の半数以上が、何らかの形で仮想通貨で資産を保有している状況、現在の個人資産とも言われる1000兆円以上の富の半分以上が仮想通貨に置き換わっていなければならない。
そんな状況が近い将来にやって来るとは思われないし、その前に国家による何らかの規制が入るだろう。
いや、その前に国家による仮想通貨(たとえば円コイン)のようなものが誕生するであろう。
そうなれば、みんな円コイン(送金の利便性および通貨としての安定性により優れているだろう)を買うわけだし、ビットコインなどの怪しげな仮想通貨は見向きもされなくなるだろう。
以上が、私が仮想通貨が現存の通貨の様にはならないと考える理由である。