久しぶりに文章を書いている。東京都議会議員選挙が終わるまでは、政治的な、もしくは社会的なことは書かないように心掛けていたが、「今朝は小鳥を見ました」とか「どこどこのホットドッグは美味しいです」なんていう無意味な文章を垂れ流すのもバカバカしいので、やはり書くことは社会的なことになってしまう。

 

 元来、私は社会的な人間ではない。(政治家という職業柄、奇異な感じを受けるだろうが)

 かといって、反社会的な人間ではありえない。反体制的な考えなどもうとうない。あえて表現するならば、非社会的な人間なのだ。

 その理由。

 私たちが生きる現代社会に、どうにも嘘くささを感じてしまっているからだ。

 社会の流れに逆らわないことは、トレードで成功するように、人生においては最重要事項であることは頭ではわかっているが、どうも素直にそのようにはなれない。

 流れに逆らって生きることを良いとも思わないし、変に頑固な反骨精神など持ち合わせていないのであるが、どうも流れの方が私の事を自然に乗せてくれないようなところがある。

 私は変人ではない。いたって常識人であり、世の中の摂理をわきまえた人間である。だが、自然な形で社会の流れに乗れないで生きてきた。

 これは、私自身が感じている前述した「世の中の嘘くささ」に気が付いてしまっていることだろう。

 自然な流れの行く先に、ナイアガラの滝のような絶壁が待ち構えているような予感がしてならない。とても能天気には生きられない。

 つまりは、世の中、社会を信用していないのだ。かといって私自身は革命家でもないし、日々の生活は最低限は安穏と満足のいくものであって欲しいから、反社会的な人間ではなく、せいぜいのところ、非社会的な人間なのだろう。

 

 社会の醸し出す嘘くささ。

 政治の世界など、まさにそうだ。

 埼玉県かどこかの自民党の女性代議士が、秘書に暴言を吐いた様子だとか、稲田防衛大臣を罷免すべきかどうかとか、加計学園にからんで下村文部大臣の政治資金パーティーがどうだとか、おおよそくだらない話題に終始している。

 こんなくだらないことは、追及していくのもバカバカしくならないのだろうか。(別に個々個別の事例を容認すべきと言わないが)

 

 日本の国全体が腐っている。というよりは、正しくは日本人全体が腐っている。(もちろんその中に自分自身もある程度は含まれているという自戒も込めての表現だが)

 もしかしたら全世界レベルで腐っているのかもしれない。

 別に悪徳や不正だけで腐っているわけでない。むしろ市井の善良な市民のレベルにおいても腐っている。腐っているという表現がどぎつく酷いのであれば、「澱んでいる」と言い換えても良い。

 

 それぞれが、それぞれ個人の立場から、自分達の身や利益、既得権などを守り、少しでも自分達の有利なポジションに移動しようとあくせく動くことによって、また少しでも自らの欲望を満たし、苦痛を回避しようと立ち回ることによって、明白な悪徳や犯罪が存在しなくても、社会全体として緩慢に腐っていく、澱んでいくというありさまではないか。

 かつては、違っていたのであろう。

 アダム・スミスの見えざる神の手の寓話を持ち出すまでもなく、一人一人の個人がそれぞれに自らの状況を改善させるために頑張り、いそしむことで、社会全体が豊かに発展すると考えられていたし、実際のところ19世紀から20世紀終わりまたりまでは、そのようにプラスの進んでいたのであろう。

 

 何を書いているのか、まとまりがなくなった。

 しばらく熟考して、この「澱み」の正体について、再度書いていきたい。