表現について、というと何やらクリエイティブな内容かとも思われるが、今回書きたいことは「表現の自由」に関してである。

 私は、様々な現行の社会において認めれれている権利のうちでも、「表現の自由」についてはもっとも尊重されるべき権利であるとの考え方を持っている。

 これは、たとえ猥褻な描写であろうと、差別的な言葉(個人的にはこの類の表現には否定的だが、、)であろうが、それが個人が表現したものであれば、きちんと表現の自由は守られるべきとの考えである。

 その理由は社会における道徳、倫理観という者は、その時代時代によって変化するものであるし、いかなるものでも表現についての規制は論外であろう。これは信仰の自由と同様に、何人にも侵すことができないものであろう。

 

 このような考え方を持つ一方で、表現されることが、特定の個人や集団に関するプライバシーに関することにおいては、逆に表現の自由は一定の規制を受けるべきとの考え方を持っている。これは一見、矛盾するように思われるかもしれないが、ともに社会よりも個人を大切にするというリベラルな観点からは当然のことであろう。

 

 ところで、検索サイトにおける削除をめぐって、先日最高裁で個人のプライバシーを保護するために検索サイトからの削除を認めないというような判決が下された。

 表現の自由とプライバシーの保護を考慮しての、きわめて高いハードルが示されたわけであるが、これはどうかとも思う。

 具体的には、訴えをおこした者は5年以上前に買春容疑で罰金50万円の略式命令を受けた事実を、検索サイトから削除しろということで争っていたのだが、殺人、強盗、テロなどの凶悪犯罪ならいざしらず軽微な犯罪においても、このような犯罪歴が生涯公にされるということが、本人のプライバシー保護の観点からもおかしいと思う。

 ヨーロッパなどでは、近年プライバシー保護の観点から「忘れられる権利」の考えが浸透しており、個人情報保護重視の傾向が高まっている。

 この点からも、この問題は大いに議論を深めていくべきだろう。

 

 しかして、このような表現の自由とプライバシーの保護のバランスにおいては、社会性の強い状況、たとえば政治家の過去の発言などについては、表現の自由が重んじられているようだ。つまり削除はされないということだ。

 これについてもどうかと思う。過去の発言といっても、30歳の頃と60歳の頃では、当然価値観も政策も変わっていてもおかしくないし、そもそも社会状況でさえ著しい変化を遂げているものだ。

 何十年前の一言を、生涯にわたって云々されるのは不本意というものだ。

 

 それにしても、トランプ氏のようについ最近の言動でさえ、「そんなことは言った覚えはない」と受け流す図太さがなければ、そもそもやってられないのかもしれない。