先日、とある政治関係者(地方議員)が、国会議員になりたいという理由に、「黒塗りの運転手付きの高級車」に乗りたいと話しているのを聞いて唖然とした。その時は特段に反論しなかったが、これは「苦しい人」だと痛感した。

 何も「**を成し遂げたい」というような志の高さを求めてはいなかったし、本人とても本音の雑談としての言葉であろうが、あまりにも酷すぎる。

 黒塗りの運転手付きの高級車が素晴らしい、かっこよいとの価値基準が情けなくなる。まだ車好きが高じて、ポルシェやフェラーリに乗りたいというならわかるが、黒塗りの運転手付きの高級車とは、呆れてものがいえない。

 

 これではガキが超合金のオモチャを自慢し、バカな若い女がブランドのバッグを欲しがるのと同じレベルだろう。きっと本人は大まじめで、黒塗りの運転手付きの高級車を政治家が乗り回すことを、とても羨ましいと思っているのだろう。つまり黒塗りの運転手付きの高級車、イコール「偉い人」ということか。

 それはその人の価値基準であり、とても歪曲化された世間のイメージである。

 周囲からどのように見られるかに価値基準を持つ人々は、苦しい人である。

 

 この話は極端な例だが、同じようなことは多くある。

 高級な服を着たい、大きな屋敷に住みたい、さらには有名人(セレブ)と同じ街に住みたい~(とはいってもその有名人と親友になれるわけでもないのに、、)などなど。

 美人の彼女が欲しいだの、イケメンの彼氏が欲しいだの、などなど。

 

 美人の彼女、その逆の話で考えてみよう。

 生粋の美女は、イケメンの男性を求めない。さえない男でもオヤジでも構わないのだ。なぜならば、輝くのは自分自身で、そばにいるイケメンではないのだから。

 どんなに飾りたてて美人を装っていても、根源的なところで自分は美人でもないしモテないという劣等感を抱いている女こそが、若くイケメンの彼氏を求めるものだ。

 

 苦し人々が、人から羨ましがられたいと思うのだ。

 最初から満たされた欲望は、他者の羨望を必要とはしない。

 

 多くの人々は、周りから「金持ち」と羨ましがられたいがために、金持ちになりたい。そして周りから「貧乏人」と蔑まれたくないから貧乏を嫌う。

 金持ちの豊かさや貧乏の辛さよりも、その方が大切なことなのだ。

 そしてある程度の豊かさが実現した現在は、周りから「かっこよい」と羨ましがられたい、周りから「ダサい」と蔑まれたくない。

 まさにそのことのために辛い努力をする、他者のために生きているのだ。

 きわめて日本人的な、それも百姓的な価値基準ではないだろうか。

 

 しかし考えてもみよう。他者から羨ましいと妬まれることは良いことだろうか。

 周囲の人々から「いいなぁ」と羨ましがられるよりも、「大変だなぁ」と頑張っている姿を同情される方が、一般の人間関係では得であるに決まっている。

 

 苦しい思いをして、周りから妬まれるよりも、実は楽々なのに、しんどそうだなと感心される方が実際のところは良いのである。

 

 自分を大切にしよう。

 苦しい人にはなりたくない。