昨日の早朝、新聞を取りに玄関まで行って、無造作に新聞を手にすると一面にボブ・ディランの文字と写真が目に留まった。前の晩、区議会第3回定例会の最終日の打ち上げで呑み過ぎて頭がうまく働かないから、何かの記憶やイメージが錯綜しているのかと、そういえば今年の春だったか、彼の来日公演をオーチャードホールで観たなぁとかボンヤリと思い出しながら、再びベッドの上で新聞を広げると、彼がノーベル文学賞を受賞したニュースが掲載されていた。これは驚いた。でも納得する話でもある。

 

 偶然、数日前に同僚議員と、「村上春樹はノーベル文学賞を取れるか」なんて話題で盛り上がっていた。私は「無理でしょう」と話していた。

 確かの村上春樹の作品は小説としては面白いが、いささか自意識過剰気味な日本の青春物語は、全世界のリアルな感性には訴えないだろうし、面白い小説と人間存在の根底を揺さぶる傑作とは別のものだろう。

 一時代の庄司薫の青春モノと同様だろう。(なぜここで庄司薫が例に出てくるかというと、たまたま縁あって、数日前に彼の自宅に出向いて挨拶をしたからだ、彼はすでに79歳だが話は面白く健康そうだった)

 1960年代から1970年代の時代の空気をうまく感性としてパッケージ化した小説、特に村上春樹の初期の作品はそんなイメージが付きまとう。

 それならば、彼が感性の根源としてきた、まさにその時代のメッセージ性を強く代表するアーティスト、ジョン・レノンやジム・モリスンやボブ・ディラン(前者の二人は故人ゆえに不可能であるが、、)なんかが、ノーベル文学賞を受賞するべきだ、というようなことを議論していた矢先のことだった。

 

 だが、最近のインターンに来ている大学生は、村上春樹は知っていてもボブ・ディランなんて知らないだろうし、あの時代の空気も知らないだろう。

 まさに「時代は変わる」ということか。

 だから彼がノーベル文学賞を受賞する時代なのだ。