経済に関しての包括的な話をシリーズで書いていきたいのだけれど、どうしてもこの分野は内容が複雑なだけに、全体的な内容が自分の頭の中でまとまっていかない。

 だけど書きたいこと、表現したいことは内面に貯まっていく。されば、完全な話のシリーズはある程度の時間をかけるとして、とりあえず断片的なことからでも書いていきたい。


 この数カ月にわたる自分の中での問題意識は、「なぜデフレ経済から世の中は脱却できないのだろうか」というテーマだ。それから発展して、「実はこの世界の前提となっている資本主義経済は、実は終焉に向かっているのではないか」というテーマが生まれてくる。


 さしずめ、デフレ脱却の話。私は経済学者でもなければ、経済評論家でもないので、わりとこの問題に関しては自由気ままに書き進めることができる。専門家であるならば、荒唐無稽な話でも許される部分もあろう。

 デフレ脱却を阻む最大の原因は、需要と供給との間の決定的なギャップにあるというのが、私が突き詰めた考えである。

 特にそのギャップは、需要の不足というよりは、供給側の異常な過多に原因はあると考える。

 

 供給側、つまりは生産者とも言われる部分が過剰なのである。かつて日本の産業は製造業においては、かなりの生産性を把持していたが、サービス業においては世界的にみて生産性が低いなどと言われていた。それから、幾年月が過ぎ、サービス業(たとえば飲食業、小売り業、流通、観光などなど)においてもかなりの効率化は図られて、その生産性は向上しているのであろう。

 普通ならば、このような過程において、多くの非生産的な企業、つまりは生産者は自然淘汰されていき、供給側の全体的な総量は減少していくのであるが、なぜか日本においては過当競争(それによるさらなる生産性向上への圧力、そして価格破壊の進行)という状況に陥るだけで、ダメな生産者が何とか喘ぎながら生き残り、供給側の自然減少には至らなかったのである。

 ここが問題である。


 不思議なことに、日本の社会においては、まったく儲からないのに商業は継続している例が多く存在する。生産者側に資本の蓄積があるのか、銀行が貸し出しを継続するのか、理由は多様にあろうが、酷い場合などは、長年にわたって損失を重ねながら商売を続けているケースも多々目にするのである。

 この大きな不条理があるからこそ、生産者側の供給圧力は減少しないのである。

 確かにバブル崩壊後、かなりの部分は解消されたのであろうが、未だに不毛なサバイバルゲームが続いていることも事実であろう。

 個人的な趣味ならいざ知らず、儲からないことを継続しているバカバカしさに、早く気が付くべきである。


 私は思う。

 この無意味な生産者を早く市場から撤退させるためにも、「コストパフォーマンスの悪いものには金を使わなければ良い」。

 この消費におけるコストパフォーマンスの意識は、じわじわと多くの消費者に浸透してきているが、この意識をさらに多くの消費者が推し進めることが、大きな観点から経済にはプラスとなるのではないか。


 割高な老舗のモノやサービスは仕方ない、そこには数字でははかれない付加価値があろう。また商売度外視で、趣味的にこだわるのも良いだろう。

 だが、漫然と惰性でコストパフォーマンスの悪いモノやサービスを、消費者に提供しているような輩には、一切のお金を消費すべきではない。

 たとえば、場末の割高な呑み屋、観光地のぼったくり、単なる古くからの付き合いでの商取引、こんなものは早く消滅するべきなのである。

 社会も、また行政も、こういう生産者に対しては、けっして救いの手を差し伸べるできではなく、早く業態変更なり新規展開なりの道を指示すべきであろう。

 このように書いていくと、いかにも冷たい新自由主義的な考えと思われるが、やはり長期的な視点にたって考えるならば、それは当の生産者にとっても、社会全体の消費者にとっても、そして経済全体の未来にとっても良いことであると確信している。


 非効率的な生産者を権力で強制的に市場から追い出すわけにはいかないのだから、多くの消費者が現在以上にコストパフォーマンスという意識を強く持っていくことが大切だろう。