前回のブログの「子ども食堂」の話を読んだ知人が、「前々から思っていたのだけれど、のづさんは高齢者に対しては優しいけれど、子どもや若者に対しては冷たい」と話してきた。

 そんなものか、普段は気にしていなかったが、確かに私の意見は、弱者と呼ばれる人々でも、高齢者や障がい者、また災害や事故、さらにはイジメや犯罪の被害者に対しては優しいが、子どもや若者に対しては厳しい。

 子どもはともかくとしても、若者の貧困だとかに対して、まったく共感しない。

 これは若者が嫌いなわけではなく、若者を弱者と考えていないからだ。

 若いものが貧しいのは当たり前、若いうちから金満な方がおかしい。

 現在は貧困な状況でも、若者には未来がある。いかなる状況でも、若者はうらやましいものだ。

 

 貧困の連鎖とか言うけれど、身分制度のある江戸時代じゃあるまいし、またどこかの古い因習の残る発展途上国でもあるまいし、現代の日本においては、本人の努力では「どうにもならないほど、貧困というものが未来永劫に継続していくとは考えれない。

 ただ何となく無自覚に惰性で生きていると、なかなか貧困からは抜け出せないという程度のものだろう。

 あと、本人の指向性の問題もある。いくらでも裕福な世界の側に移れるのに、本人の指向性ゆえに現状を打開できないという悲劇もある。


 若者を弱者ととらえるような場合は、それでも「貧困」という側面でしか想定できない。

 それ以外には、若者には他の世代に比較して辛いことなどないだろう。

 体力的にも充実しているし、いくらでも恋愛やスポーツも楽しめるし、何よりも無限の可能性を持ちえているのだから。

 そう、たとえ貧困であったとしても、若者にはそれを差し引いても余りある、素晴らしい状況が備わっているのだ。

 ゆえに、私は「若者は弱者たりえない」と主張したいのだ。


 それでも、若者が悲観的になる、また世間が若者の状況を悲観的にとらえるのは、「物事の考え方のひとつ」なのだ。


 現在、私が街中で配布している政策カードには、「世の中には幸も不幸もない、ただ、考え方ひとつだ」と記されている。

 シャークスピアの「ハムレット」の中に出てくる言葉だ。


 解決すべき問題は、若者の貧困そのものではなく、ことさらに若者の貧困を抜け出せない泥沼のように囃し立てる、まさに夢のない社会のあり方の方だろう。