子供の人間関係とは、集団にある人間関係だ。特に日本においてはそうだ。

 農耕社会である日本においては、大人になってすら集団における人間関係が大きな意味を持つ。

 会社の同僚や上司・部下、はては地域でのボランティアや趣味のサークルにおける人間関係まで、その力学は個人対個人ではなく、常に集団の中で構築されていく。

 日本独自の社会的な現象であろう。

 「村八分」なんて言葉が存在するほどであるから、それもそれで納得がいけるというものだ。


 人間関係とは、本来は「人と人」、つまりは「一対一」の人間関係を基本とするものであろう。

 自分という個人と他者とのあり方、それが人間関係であろう。

 そこに第三者の影響は入り込むべきものではない。

 それも家族とか親戚とかなら、話は別であるが、まさに他人となればなおさらだろう。


 それでも、子供たちの人間関係は、どうしても集団の枠組みの中で構築されていく。

 これは、本来ならば異常なことなのだが、なぜだか子供たちは疑問を持たない。

 

 まさにそこにこそ、「いじめ」なんていう問題が沸き起こる土壌が生まれる。

 自分はいじめをしたくないのだが、まわりに同調しないと、今度は自分がいじめを受ける立場に回ると恐れる。

 何とバカバカしいことであろう。

 常に個人対個人ではなく、集団の中の個人なのだ。

 これって、どうも異常ではないだろうか。


 だから、ラインの返事を返した返さない、ラインを無視した無視しないなどというくだらない問題が、子供たちの社会においては重要性をおびてくるのだ。

 たかだかラインの返事をしたのしないので、敵意を向けられるような連中ならば、そんなのはもともとからして真の友人ではありえない。

 そんな連中はほっておけばよいだけの話だろう。


 それでも、そうならないのは、子供の人間関係が集団の枠で結ばれているからだ。

 それも、狭い、狭い、とても狭い集団の枠の中で。


 そして、多くの子供たちは強い精神を持ちえないから、このおかしな集団的力学に従わざるをえない状況で悩むということだろう。


 私は、このようなあり方は嫌いだなぁ。

 だって、やはり異常だからだ。