子供の価値観というほど大袈裟な話ではないが、子供は恩知らず、感謝の気持ちが少ないということが多い。

 周囲から保護された恵まれた環境に暮らす子供にとっては、「何かをしてもらう」ということは自明の現象なので、自然のこととして何かに対して恩義を感じることは少ない。

 これはとても当たり前の話であり、別に不都合なことはないだろう。

 現代の日本の社会において生活する子供たちが、自然に「両親に感謝して、社会に感謝して」なんて状態が生じることこそが異常なのだ。

 私も子供頃は両親や社会になど、さほどの感謝もしていなかった。本当の意味において、感謝の念を持ちえたのは、やはり社会に出て後、成人してからだろう。


 何某かのことに対して感謝の念を持ちえない、それは幼い子供の時代ではそれで良いかもしれない。

 だが思春期を過ぎて、成人してからも、この特殊な感覚を持ちながら生きる若者も多い。これは幾ばくかの問題を生み出す。

 特に、小さい頃から「持てる子供」「好かれる子供」としての体験が強烈に残っている輩にとっては、自分の感性と世間の反応とのギャップに悩みだす。

 前のブログで書いたことだが、「BEの価値観」にとらわれてきた人々にとっては、そのギャップは最大級にまで拡大する。

 さらに中でも、可愛い女性、いわゆる美人などは、ある年齢までこの感覚が続くので、いい大人になってからも、多くの人々(といってもすべて男性からの)の好意、それに基づく善意の行為に対して、いささかの感謝の気持ちも感じえない。

 そして、人生のある時期に、この貯まり積もったツケを大量に支払わされることになる。

 まさに、意地悪な人生の悲劇!


 それにしても、私は20代の起業している時代、30代以降の政治の世界に身を置いた時代、いろいろな若い人間の世話をやいたが、多くの人間が恩を感謝せずに好き勝手に逃げて行った。

 その度ごとに、私は腹を立て、また自分に対して失望の感情を募らせていたのだ。

 あんなにいろいろと世話をやいたのに、結局は何も感謝もせずに去っていくのか。

 いつでもそんな思いで悶々としていた。

 だけれどもよく考えてみれば、それもありなん。

 それでも、事態に納得をしない私は、ディール・カーネギーの「道は開ける」の中にある「恩知らずに腹を立てない」の章を読みながら、時分の気持ちに折り合いをつけていたのだ。

 

 恩知らずは、人間性の不信につながる大きな社会の傷だ。

 それは大抵のことでは乗り越えられない心の傷となる。

 これは多くの人々が実際の人生で味わう苦い傷だろう。


 だが、このような考え方もある。

 最大の親孝行は、「適度に親に心配をかける親不孝だ」という逆転の発想。

 親はいつでも子供に頼られたい。適度に心配をかけた方が、むしろ親にとっては人生の張り合いに繋がり、良いのだという考え方。

 親はどんな時でも無限大の愛以上を子供にそそぐ。

 それゆえに、いつでも頼られる正しい親でありたいのだ。

 この考えは、ある意味で一つの真理を表わしていると思う。


 私の場合もそうだ。

 いくら後輩や関係者が恩知らずといっても、それだけ頼られる人々が存在していたことで、自分自身が頑張れたわけだし、それはそれで感謝するべきだろう。

 そう考えると、恩知らずの連中にも感謝の気持ちが湧いてくる。

 人生とは不思議なものだ。