子供の価値観について、さらに話を進めていきたい。今回は話が少し複雑なので、いささか長文になりそうだが、ぜひともおつきあいいただきたい。


 子供が他者、とくに友人や異性に対してだが、「好き嫌い」を感じる時の基準についてである。そしてこの場合の「好き嫌い」は、広く解釈して「評価する評価しない」とも置き換えられる。

 子供の世界にあっては、その存在自体の優劣が判断の大きな材料になる。

 たとえば、溌剌として賢そうとか、活発でスポーツが得意とか、もちろんかっこよい、可愛いといった外見上の容姿も重要だ、さらには親が金持ちそうだとか、謎めいた魅力があるとか、それはそれは様々な要素が取り上げられるが、どれもその人に備わった魅力により判断される。

 先には良い要素ばかり上げたが、逆に悪い要素としては、ダサい、暗い、のろのろしている、怪しそうで陰気だとか、こちらもいくらでもあげられる。

 良いスペックを有している子供は、周囲から一目置かれ、その結果として愛されるが、その逆の場合は、当然疎んじられ無視され、酷いケースならばいじめの対象にもなりかねない。

 これが残酷な子供の世界の現実である。


 それに対して、大人の世界においては、他者への評価については、「その人がどのような人か」ではなく、「その人が何をしたか」によるところが大きい。

 たとえ有能で素晴らしい人物であっても、自分や共同体(たとえば会社など)に対して何の貢献しないのであれば、誰もその人物に対して良い評価などはしないものだ。

 

 これを私は「BEの評価」~その人自身への評価

        「DOの評価」~その人が行ったことへの評価  と呼んでいる。


 一般に恵まれた環境、豊かな社会においては、「BEの評価」の方が「DOの評価」よりも高く考えられる。厳しい世間の荒波に投げ込まれる前の、子供の世界は周りから保護されている恵まれた環境なので、当然に「BEの評価」が優勢となるのだ。

 でも、厳しい社会の現実に直面すると、その人のあり方がどうかなどより、その人が自分にとって何をしてくれたかに判断の基準が移るようになる。誰もが人の事より自分の事で精一杯なのだから当然であろう。


 「BEの評価」に慣れ親しんできた子供が、やがて青春時代を向かえ成人に成長する過程において、どこかでこの価値観のパラダイムシフトが行われる。

 最初の試練が大学受験だろう。ある程度の頭の良い子供でも、一定の時間をかけて努力しないと、この難関は突破できない。

 特に日本の入試制度は、生まれ持った知能よりも時間を費やして習得した知識を重んじるように出来上がっているので、その傾向はなおさら強いといえよう。

 日本の入試においては、知的水準よりも、「無意味なことであっても、どれだけ一つの事に努力を積み重ねることができる能力があるかないか」が問題となるのだから。

 それでも学生時代ならば、大きな挫折もなくやり過ごすことは可能だろう。たとえ大学入試に失敗しても、その年頃の若者にとっては将来の不安よりも重要なことは、「まず恋愛であり、モテるかモテないか」が大きなウェイトを占めるのであるから、まずまず魅力的な者ならば、楽しく充実した青春時代を過ごすこともできよう。

 しかし、その後が良くない。さらに年齢を重ねて社会人にもなれば、より具体的な成果が行動として求めらるようになるからだ。

 それでも中には持ち前の人当たりの良さ、まさにコミュニケーション能力を駆使して、社会と帳尻を合わせる者もいるだろう。周囲の人々から好かれることで、何とか努力も積まずに乗り切る者もいるだろう。

 なんせ、見た目が良さは、社会における最大の武器なのだから。

 だが、30歳あたりを過ぎるころから、状況は劇的に変化するのだ。

 30代も半ばを過ぎると、かつての爽やかなイケメンも頭髪は薄くなるし腹も出てくる。憧れの美女もただの「小奇麗なオバサン」でしかなくなるのだ。

 ここで彼らは気が付く。当たり前のように人々が与えてくれた評価とは、実は幻想の賜物でしかなかったのだということを。


 たとえば芸能人か何か、人々の人気を糧とするような職業であるなば、つねに自分の「BEの評価」を磨くことで生きぬくこともできるだろう。しかしこれは特殊な世界だ。

 私たちが身を置く政治の世界でも、つねに「選挙」という名の人気投票の試練が存在する。確かにここでも経歴が良かったり見た目が良き候補者は得をするだろう。一定の下駄をはくことができるのだ。

 だけど、これとて長くは続かない。30歳の美人候補者はいずれは老けるし、また30歳の弁護士という良い経歴も、その時点では素晴らしいが、50歳の弁護士になれば、ただ単に「インテリの候補者」といういだけの陳腐なものになっていくだろう。


 人生は厳しいものだ。子供のようには生きられない。

 そして、多くの人々(もちろん私自身も含めて)は、天才でもなければスーパースターでもないのだ。


 このような悲劇(といっても大いなる勘違いでしかないのだが)に苦しむ若者は数多いと思う。特に「ゆとり教育」が全盛時代に成長した、現在30代半ば以前の者達に多いと言われる。

 「あなたが何者であるかは知らない!、それよりもあなたは社会に対して何ができるのか?何によって貢献するのか?」という自明の言葉を、なかなか理解できずに苦しむのだ。

 これは可哀想な現実だ。社会から甘やかされてきた人々の悲劇。

 若者の就労支援とかいうけれど、この点をきちんと押さえなければ、すべての政策は虚しいものとなろう。