子供の価値観についての話の続編です。


 当たり前のことではあるが、子供は主に現在に生きる。

 自分の未来には、無限とも感じられる時間、それに付随する可能性が広がっているように感じるものだ。

 実際は時間とは有限であり、時の経つのは早く、短い人生のうちに成し遂げられることも限りあるのだが、そんなことは経験しないとわからないものだ。


 ゆえに、時間の感覚としても、大人とは異なるものだ。

 たとえば、小学生や中学生にとっては、1年間とか2年間とかは、とてつもなく長い時間に想われる。

 私たち大人にしてみれば、長い人生のうちでの1年間や2年間などは、短い時間であるし、何事かをきちんと成就しようとするならば、それくらいの時間を費やしても無駄ではないと考えるのが普通である。

 しかし子供には、その発想がない。だから時間をかけて、長期的な計画を進めていくことに疑問と不安を感じるのだ。

 これは小さな子供だけでなく、青春期の若者にでさえ当てはまるような考え方だ。


 そして、現在に生きるがゆえに、現在ある状況を普遍的なものとしてとらえ、将来の時点での様々な変化に対応できない。というよりも対応するために将来を予想しないし、したくもないのだ。


 この点にこそ、人間の成長期における最大の悲劇が潜んでいるのだが、、。


 賢い親の世代は、「そんなことでは将来、いらない苦労をするぞ」と自らの経験に照らしてアドバイスするのも古今東西のよくある姿だし、そんな親の忠告を無視する子供も古今東西のよくある姿だろう。

 これは親を信用してないとか、自分独自の価値観が邪魔するとかではなく、真に実感できないからゆえのことなのだろう。


 この子供の価値観において根本的に欠落していことは、「人生において時間も、チャンスも、能力も、可能性も、そして喜びも愛情すらも、すべて有限のものである」との認識だろう。

 人は、人生を生きてきて、ある時点でこの残酷な事実に気が付くのである。(もっとも老年期になるまで気が付かないで過ごす人々も中にはいるが)


 世の中の価値ある様々なもの、特に大切なる時間が、人生にとって有限のものであるならば、次に考えることは何であろうか。

 それは物事に優先順位をつけるという考え方だろう。至極当然のことだ。


 そう、子供の価値観においては、物事の優先順位という概念が欠落しているのだ。

 これは言葉を変えて表現するならば、「物事の折り合いをつける」という概念であろう。